みちのわくわくページ

○ 本  SF 日本

<作家姓あいうえお順>
マルドゥック・スクランブル 圧縮 燃焼 排気(冲方丁)
機龍警察(月村了衛)
ヒッキーヒッキーシェイク(津原泰水)
日本SF精神史(長山靖生)
星界の紋章TUV(山岡浩之)

マルドゥック・スクランブル 
冲方丁(うぶかたとう)著(2003年)
ハヤカワ文庫
登場人物:ルーン・バロット(少女娼婦)、ウフコック=ペンティーノ(事件屋)、ドクター・イースター(事件屋)、シェル=セプティノス(賭博師)、ディムズデイル=ボイルド(事件屋)、ミンチ、フレッシュ、レア、ミディアム、ウェルダン(畜産業者のグループ)
15歳の少女娼婦ルーン・バロットと、変幻自在のネズミ型万能兵器ウフコック・ペンティーノが、事件屋コンビとなって連続殺人犯を追うSFハード・アクション。
人名を初め、ものにはたまごに関係する名がつけられている。

以下あらすじ紹介。ネタばれもあり。
バロットは、シェルという名の賭博師により炎上する車の中に閉じこめられ殺されかける。
事件屋のドクに救助された彼女は、金属繊維による人工皮膚を全身に移植することによって蘇生し、高度な電子干渉能力(スナーク)を得る。つまり、見ていなくてもものの動きを察知し、手で触れることなく機械を作動させることができるようになったのである。
彼女を助けたドクは科学者、彼の相棒のウフコックは、人間ではなく、ネズミの形をした変幻自在の万能兵器だった。好きなように姿形を変え、銃器を作りだすことができる。例えば彼はスーツとなってバロットの全身を覆い、必要な時は、バロットの手元に銃を形成するのである。
一方、シェルの事件担当官ボイルドは、かつてのウフコックの相棒。ウフコックが生き物の形をし、心を持った兵器であるのと対照的に、ボイルドは、兵器化した人間、けがの治療を受ける際に科学者によって様々な手を加えられた結果、眠りを必要とせず重力を自在に操るという特異な肉体を持つ冷酷な人間兵器となっていた。
バロットは、ドクとウフコックとともに自らの事件を解決することを決意する。
彼らは、シェルが殺人を繰り返す要因は彼が自ら消し去った過去の記憶の中にあると推測。シェルが捨てた記憶のデータが、シェルの雇い主である大企業オクトーバー社が経営するカジノの百万ドルのチップに埋め込まれていることを突き止める。
バロット、ウフコック、ドクの3人は、客となってカジノに乗り込み、目的のチップを手に入れるためのギャンブルに挑む。ブラックジャックの長い勝負を経て大勝したバロットたちはついにシェルの記憶データを得る。シェルには、陰惨な過去があった。
シェルにマネーロンダリングをさせていたオクトーバー社の重役は、バロットたちに刺客を差し向けるが、彼女らにたやすく撃退されると、ボイルドを雇い、シェルの殺害を命じる。バロットとウフコックは、シェルの身柄を確保するため、ボイルドと対決する。
変幻自在の万能兵器と金属の皮膚に包まれ機械を自在にあやつる少女が銃撃する戦闘アクション小説かと思ったのだが、もっとも印象が強く、量的にも多くのページを占めるのは、カジノでのゲームの場面である。ルーレットの勝負ではベル・ウィングという老女のスピナー、ブラック・ジャックの勝負ではアシュレイ・ハーヴェストというディーラーが登場して、いずれも渋いベテランぶりを見せる。延々と続くディーラーとバロットたちとのゲームの駆け引きの様子は、戦闘シーンを読んでいるような、緊張と興奮を誘うのだった。
「圧縮」「燃焼」「排気」の3巻からなる。

圧縮:シェルの手によって殺されかけたバロットは、蘇生し、ドクとウフコックという味方を得る。バロットは、ウフコックを用いてボイルドが差し向けた刺客をいとも簡単に撃退するが、暴走しウフコックを濫用したことで彼に大きなダメージを与えてしまう。
燃焼:科学者たちの「楽園」で、バロットは、言葉をしゃべるイルカのトゥイードルディムや痛みを知らない完全個体の少年トゥイードルディと出会う。バロットを追ってきたボイルドは暴虐の限りを尽くすが、楽園はすぐさま楽園に戻るのだった。バロットたち3人はカジノに乗り込む。
排気:ブラックジャックの勝負の末、バロットたちは、ついにシェルの記憶データを手に入れる。バロットとウフコックは、ボイルドとの最後の戦いに臨む。
※「マルドゥック・スクランブル」は、マルドゥック市における裁判所命令の一種で、人命保護を目的とした緊急法令の総称である。バロットたちが行使するマルドウック・スクランブル−09は、緊急法令の一つで、非常事態においては、法的に禁止された科学技術の使用が許されることをいう。これによって、ウフコックは自らの有用性を証明しようとしているのである。(2011.1)

ヒッキーヒッキーシェイク
津原泰水著(2016年)
ハヤカワ文庫(2019年)

★ネタバレあり!★
アマゾンでお勧めされて衝動買い。文庫化に当たって出版社側でいざこざがあったらしいけど、それは置いておく。不思議なテイストの小説。
ひきこもりカウンセラーの竺原の声掛けにより、4人の引きこもりが共同してある電脳プロジェクトに取り組む。プロジェクトの目的は、「不気味の谷を越える」こと。
自ら詐欺師と称する竺原は、うさん臭さがぷんぷんとする50代の男。彼が声をかけるヒッキー(ひきこもり)たちは、タイム、パセリ、セージ、ローズマリーと呼び名をつけられる。このハーブの名称の羅列を見れば、竺原と同年代で、条件反射的にサイモン&ガーファンクルの「スカボロ・フェア」のメロディが頭をよぎる者は少なからずいるはずだ。そして、追い打ちをかけるかのように、同曲の歌詞が章の終わりごとに引用される。
パセリ(乗雲寺芹香)は、18〜19歳のハーフの女の子で美術の才能がある。西洋人の落語家という有名人を父に持ったため、西欧人の容貌をしていてかなりの美少女らしいが、中身は日本人で英語も全く話せず、容貌と中身のギャップからくる内外の弊害に悩んでいる。セージ(刺塚聖司)は大人の男で、学会で研究発表をしたこともある高学歴の技術者。実家の敷地に建てられたちょっと風変わりな建物に一人で住んでいる。タイム(苫戸井洋祐)は中学生の男の子で音楽に興味がありベースを弾き、パソコンで作曲もする。竺原いわく、タイムが「一番大人だが、症状は一番やばく」て、人に見えるものが見えず、見えないものが見えたりする。ローズマリーは、ロックスミスと呼ばれるハッカー中のハッカーで、最後まで性別も氏名も不明。卓越したネット技術?を持つ。
「不気味の谷を越える」とは、「人間を創る」ことで、つまり、CGで人をつくっても細かいところにこだわるほどに人ではない「不気味さ」が生じてしまう、その不気味さを感じさせないリアルな人間を創る、ということらしい。
それが最初のプロジェクトで彼らは「アゲハ」という美少女を創造する。
続いて、第二段は、竺原の故郷の町に小さな象のようなUMA(謎の生物)「ユーファント」が出現するという話をでっちあげる。この計画は過疎化が進む村の地域おこしへと発展していく。
ところが、「アゲハ」から「ウォルラス」という有害なサイトへ誘導する仕掛けが何者かによってしくまれる。そのサイトの映像を見た者は体調を崩し、吐き気と頭痛に襲われる。コンピュータウィルスではなく、リアルに人体に感染するウィルスである。
犯人は「ジェリーフィッシュ」と名乗る者だが、彼の正体は、実は竺原の弟である。彼は、幼児のまま心の成長が止まり、施設で生活していた。竺原とヒッキーたちは、「ウォルラス」による感染を阻止するため、ジェリーフィッシュが関心を持ちそうな「ロボットアニメ」を作ってネットに上げ、彼をおびき寄せる作戦に出る。
電脳世界のことはよくわからないので、なんだかあまりよく実感のわかないふわふわした感じでしか読めない小説なのだが、すいすいと読みやすくはある。
「ヒッキー」たちのそれぞれの事情と、プロジェクトに関わることがきっかけとなってちょっとずつ外の世界に向き合っていこうとする様子が描かれていくのが、なかなかよく、引きこもりという言葉から連想される閉塞感とは反対に、不気味の谷、渓谷に出現する小さな象と言ったイメージが、そこはかとない解放感を感じさせれる。
竺原という、どうみてもうっとうしそうな中年男にあまり嫌悪感を覚えないのも不思議だ。物語のふわふわ感を強めているのは、「アゲハ」でも「ユーファント」でもなく、この竺原のとらえどころのなさと、ローズマリーの存在である。神出鬼没の伝説のハッカーが登場することで、物語は一気にマンガ的になり、荒唐無稽さを増す。
竺原の言動の真意が明らかになっていくにつれて、うさん臭ささはなくなっていくが、余命いくばくもなさそうだったり、障害を持つ弟を抱えているという事情の暴露は、途中から予想できるのだが、夢の世界から地に足のついた現実世界に戻されたような気にもなり、もう少し意外な展開になってほしかったようにも思う。(2019.10)


日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで
長山靖生著(2009年)
河出ブックス
最近は、「SF」というと売れず、「ファンタジー」とすれば売れると聞く。わたしは全く理系の頭を持ち合わせていないにも関わらず、どちらかというとファンタジーは苦手で、SFという方が好きである。冒険科学小説がいつからSFと呼ばれるようになったのか、日本のSF小説の歴史を幕末からたどるという、希少な内容の一冊である。
幕末から明治にかけての、理想世界を描いた架空小説をSF小説とみなし、尾崎行雄ら民権派の志士による民権・国権政治小説を紹介、森鴎外の冒険小説への言及や、幸田露伴が科学小説、冒険小説を書いていたことなどもわかっておもしろい。明治三十年代に「食道楽」(村井弦斎著)という「美味しんぼ」のような小説が大ヒットし、社会改良の小説として筆者はこれもSFに入れる。(この小説については、夏目漱石も「琴のそら音」の中で触れているという。)
明治時代の「冒険世界」を始めとする三大冒険雑誌、大正に入っての「新青年」の創刊、昭和になると江戸川乱歩、海野十三という名が出てきて、探偵小説が百花繚乱となるが、太平洋戦争とともに廃れ、軍事冒険小説が隆盛となる。手塚治虫が戦前と戦後の橋渡しをし、やがて昭和29年「星雲」創刊となる。「星雲賞」の星雲と思われるが、意外なことにこの雑誌は創刊号しか出なかったという。やがて星新一や広瀬正の小説の解説に必ず出てくる「宇宙塵」、今も出版されている「SFマガジン」(昭和34年12月創刊)へと続く。SF雑誌の変遷がそのまま日本SF史となっていて興味深い。(2010.5)



星界の紋章T 帝国の王女 
星界の紋章U ささやかな戦い
星界の紋章V 異郷への帰還

森岡浩之著(1996年) ハヤカワ文庫
星間帝国の王女ラフィールと、不本意ながら帝国の貴族となった地上人の少年ジントが活躍する宇宙冒険活劇。
帝国を統治するのはアーブと呼ばれる種族。青い髪をした姿の美しい種族で長命で年をとらない。遺伝子改造によって宇宙空間に適応した人類の子孫である。空識覚と呼ばれる独特の知覚で自分の前後左右の空間を察知できるが、船上では機体と連携して宇宙船の感知機器の情報をそのまま前頭葉の航法野という、これもアーヴ独自の領野に送り込むことができる。これにより宇宙空間での戦闘において優れた能力を発揮する。殿上人のイメージである。
アーヴの貴族が領土として個々の星系を統治するが、実際に星系を司るのは領民代表となった地上人である。地上人が直接帝国に仕えるには、国民となって故郷の星との関係を絶たなくてはならない。
ジントの故郷である惑星マーティンのあるハイド星系は、帝国に征服される際、政府主席であったジントの父ロック・リンが領主になることを申し出て帝国がそれを受け入れたため、ロック・リンとジントは、希少な地上人の貴族となった。が、帝国側に寝返ったということで、二人は、マーティンの住人たちの反感を買い、嫌悪の対象となっている。
ジントは、ハイド伯爵公子として、帝都ラクファカールの学校で主計科翔士となる勉強をするため、巡察艦ゴースロスに乗船する。そこで、翔士修技生のラフィールというアーヴの少女と出会うが、彼女は帝国の皇帝ラマージュの孫娘だった。
1巻の半分くらいまでは、以上のようなジントとラフィールの身の上紹介と、星間帝国の統治システムや身分制度や文化や歴史の説明が主で、それが過ぎた辺りからやっと話が動き出す。
人類統合体がアーヴ帝国に戦争を挑み、巡察艦ゴースロスを襲撃する。艦長のレクシュ百翔長は、ラフィールとジントを小型連絡艇で脱出させる。
二人が、給油のためにフェブダーシュ男爵領に立ち寄ったが、そこで思わぬ待遇を受けるところで1巻は終わる。
2巻は、フェブダーシュ男爵領で一騒動あった後、スファグノーフ侯国の惑星クラスビュールに不時着し、反帝国クラスビュール戦線と称する奇妙な5人組に人質とされるまで。
そして3巻は、その5人組の力を借りて人類統合体軍の追っ手を交わしてクラスビュール脱出を図る2人の逃走劇となる。
というふうに、全3巻であるが、1巻ごとに区切りがあるわけではなく、話はずっと続いているので、3巻まとめて読まないと欲求不満に陥る。

美しく尊大で戦いにめっぽう強く、時として素直な面を見せるラフィール姫と、地上人としてごくまっとうで軽口の絶えない気さくな少年ジントが、危険な逃避行の中、愉快な掛け合いをしながら、少しずつうち解けて仲良くなっていく様子が楽しい。
宇宙空間での宇宙船による戦闘は、この物語の見せ場のひとつなのだろうが、平面宇宙とか「門」とか、込み入っていて、だいぶ流して読んでしまった。個人的には、惑星クラスビュールに降りたってからの地上でのジントとラフィールの逃走劇にわくわくした。
宇宙では、ラフィールが主導権を握っていたが、地上ではジントがラフィールを守る立場になる。
途中で絡んでくる反帝国クラスビュール戦線の五人組(陽気なリーダーのマルカ、クールな志士ミン、愉快な葬儀屋、飛ばし屋のビル、無口な大男ダスワニ)や、ルーヌ・ビーガ市警の気骨のある警部エントリュアなど、ユニークな面々が出てくるのもおもしろい。
逃走劇のクライマックスは、戯画化された機械動物たちがうろうろする遊園地(幻想園)で迎える。機械動物たちのとぼけた対応が愉快であり、馬が疲れ切った二人を乗せてく走ってくれるのもいい。宇宙への脱出には葬儀場が使われる。この動物園と葬儀場という舞台設定が秀逸だ。
余談だが、愉快な五人組の一人である葬儀屋が、危機的状況に陥ったときに何度となく口にする「茨の茂みに飛びこんだ男」の話は、映画「荒野の七人」でスティーヴ・マックィーンが口にした「服を脱いでサボテンの上に飛び降りた男」の話がもとになっていると思われる。(2012.1)

参考:「服を脱いでサボテンの上に飛び降りた男に何故そんなことをしたのか聞いたことがある。・・・そのときはそれでいいと思ったんだとよ。」(「荒野の七人」のヴィン(スティーブ・マックィーンのセリフより)

本インデックスへもどる
トップページへもどる