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本 本 歴史 (研究・評論)

かたき討ち 復讐の作法(氏家幹人)
テンプル騎士団(佐藤賢一)
清水次郎長−幕末維新と博徒の世界(高橋敏)
それからの海舟、幕末史(半藤一利)
<著者姓あいうえお順>

かたき討ち 復讐の作法
氏家幹人著(2007年)  中公新書
時代劇に出てくる敵討(かたきうち)と言えば、白装束に身を包んだ若い女とその幼い弟などがいかにも返り討ちに会いそうなあぶなっかしい手つきで短刀かな んか構えて、案の定いかにも悪そうな仇にやられそうになるところに、ヒーローが助太刀に駆けつける、といったイメージがある。というかそういうイメージし かない。どうやら、敵討ちというものが公に認められていたらしいのだが、実際はどのようなしくみだったのか、というと全然わからなかった。しかし、復讐 は、時代劇に限らず、東西今昔を通して、活劇の大きなテーマのひとつである。
本書は、江戸時代の人々がどのように恨みを晴らし、幕府はどのような規則を設けて、人々の復讐を管理していたかといった、日本の近世における敵討の歴史 を、資料に基づいてわかりやすく解説しているという、興味深い本である。
以下、本書で紹介している敵討の方法や、取り決めなどについてまとめてみた。「討手(うちて)」は、復讐者、敵討をする人のこと。
うわなり打(後妻打)。離縁された前妻が、後妻に対して恨みをはらす敵討ち。室町から江戸初期にかけて形骸化したというが、前妻が知人の女たちに助っ人を 頼んで、後妻の待つ家を襲撃、竹刀で台所のものをこわしまくるという内容は、おもしろい。
さし腹。恨む相手を名指しして切腹をするというもの。名指しされた相手は、取り調べで死んだ者の言い分が正しいと判断されたら切腹しなければならない。非 力な者にとっては確実に相打ちに持ち込めることのできる方法として有効だったという。
太刀取り。敵が逮捕され処刑される際、討手に手を下させてやること。
衆道敵討。衆道は男色のこと。男色をめぐる色恋沙汰による敵討が多かったという。
敵持。敵として追われる立場の者のこと。江戸時代初期までは、大名など力のある者が敵持をかくまい保護することをよしとする風習があったらしい。かくまれ た敵持は、囲い者と呼ばれた。
敵討の許可。時代や場所(それぞれの藩主の考え方にもよる)によって違いはあるが、幕府が敵討と認めるのは、主君、父、伯父、兄など目上の者が殺され た場合で、子、弟、女兄弟の場合は認めないことが多かったという。
妻敵討(めがたきうち)。浮気した妻と相手の男に対する夫の制裁。「公事方御定書」(1742年に徳川吉宗の治世に定められた江戸幕府の法典)の下巻「御 定書百箇条」で、密通した男女は死罪、二人を殺した夫は無罪、と定められている。
敵討の手続き。合法的に敵討をするためには、一連の手続きが必要だった。まず、主君の許可を得て敵討の免状を受ける。他領に出るには、主君が幕府の三奉行 所に敵討の届け出を提出、町奉行所はこれを受けて所定の帳簿に記載する(帳付)。討手は、町奉行から敵討の許可証である謄本を受け取る。敵を発見したら現 地の役所に届けて許可を請う。役所は敵とされる者を捕らえ幕府に伺いをたてる。江戸では町奉行所が帳簿で確認し、敵討実行の指令を出す。指令を受けた現地 では、竹矢来などで囲んだ場所を用意して、敵討を行わせる。敵を討った討手は、奉行所に「帳消し」の手続きを行う。(討たれた敵の親族による「再敵討(ま たかたきうち)」は許されず、返り討ちにあった討手の親族が敵討を繰り返すことも許されない)
以上が原則だが、このとおりに行われる例は稀で、そのつど便法や特例が認められていたようだ。
竹矢来を組んだ舞台、大勢集まる見物客など、江戸時代半ば以降、敵討は、幕府が公認し後援するイベントのようになって演劇化し、討手をヒーロー、ヒロイン として讃える風潮が庶民の間で広まったという。山東京伝や十返舎一九などの戯作者は、こうした現象を茶化したものを書いたという。(2008.6)


テンプル騎士団 
佐藤賢一著(2018年)  集英社新書
テンプル騎士団という名は、いろいろな映画や小説にちらほらと出てくるらしい。著者は、映画「スター・ウォーズ」のジェダイの騎士を、テンプル騎士団と重ね合わせる。(私は、ハメットの小説「マルタの鷹」に出てくるお宝マルタの鷹像を持っていた団体だだと思ってこの本を手に取ったのだが、これは勘違いで、マルタの鷹を作らせたのは16世紀のセント・ジョン・ホスピタル騎士団で「騎士団」しか合っていなかった。)
テンプル騎士団は、1120年に結成され1307年に姿を消したが、十字軍遠征の時代にヨーロッパにおいて絶大な勢力を誇った騎士団だったそうだ。
元々はエルサレムへの巡礼路の警備、巡礼者の保護という目的で結成された有志による自警団のようなものだったらしい。設立は、1119〜1120年とされ、設立時の騎士はたった9人、従者などを入れて100人程度のもので、紋章は二人の発起人ユーグ・ドゥ・バイヤンとゴドフルワ・ドゥ・サントメールが一頭の馬に二人乗りしているという風変わりなものだった。有志でやっているから、お金がなく、見かねた聖職者や王侯貴族が住居や食べ物を与えたという。
それが、1127年のトロワ会議と呼ばれる教会会議(高位の聖職者、貴族など世俗の有力者たちによる会議)で、騎士たちは修道士に叙任され、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦士たち」という騎士団員による修道会が結成された。それまでは熱心なキリスト教信者でしかなかった団員たちは、以後、騎士であると同時に修道士でもあるという、他にない身分を得る。同時期に、聖ヨハネ騎士団が、同じ東方エルサレムに誕生する。こちらは、十字軍遠征や巡礼の傷病者の治療看護をする修道会「エルサレムの聖ヨハネ病院修道会」だったものが、武装化して騎士団になった。どちらも騎士で修道士だが、テンプルは騎士が修道士に、聖ヨハネは修道士が騎士となったという逆の経緯が興味深い。
本書は、冒頭、パリに残る「タンプル」の地名の説明をひとしきりした後、テンプル騎士団事件という衝撃的な事件の発生について記し、そのあとに続けて、騎士団の起源から、十字軍の遠征とともに彼らが徐々に大きな力を得ていく様子を解説していく。
テンプル騎士団は、封建制度に基づくヨーロッパ諸国にはなかった常備軍として軍事力を発揮し、領地を得て農業を営むとともに強力な警備力を活かして運輸業や金融業にも乗り出して経済力を伸ばし、どの国家にも属さない超国家的な一大組織となっていった。その結果、戦争好きのフランス王フィリップ4世に疎んじられ、彼が仕掛けた1307年のテンプル騎士団事件によって壊滅する。
歴史解説書なので、列記される地名とか人名とか、ヨーロッパ史に詳しくない身にはピンとこないところもあるが、200年ほどの間の騎士団の栄枯盛衰がダイナミックに描かれていて、おもしろかった。
フランスでは壊滅状態になったが、他の国では生き残った騎士がけっこういてちりぢりになったという。時代冒険小説でヒーローや強い助っ人役にぴったりのシチュエーションにある人たちという感じだ。そのあたりでも「スター・ウォーズ」のジェダイの騎士と重なるのかと思った。(2019.4)


清水次郎長−幕末維新と博徒の世界
高橋敏著(2010年) 岩波新書
次郎長の養子天田愚庵の著作「東海遊侠伝」をメインの資料として、清水の次郎長と維新前後の政情との関わりについて論じている稀少な一冊。前半は、次郎長の生い立ちと、一家を構えてからの抗争、仇敵黒駒の勝蔵との生涯に渡っての確執などについて説明し、後半は、幕末から明治維新にかけて、博徒がどのように政局に関わったかを資料に基づいて検証している。
勝蔵は、尊攘派の志士として官軍に加わるが、次郎長は、山岡鉄舟とのつながりからどちらかというと佐幕寄り、しかし基本的には中立を通す。幕府瓦解後の戊辰戦争において、博徒はその武力を評価され、あちこちの部隊に加わって参戦する。勝蔵が官軍として戦いながら後に逮捕され処刑の憂き目に会ったのとは対照的に、次郎長は駿府町差配役の浜松藩家老伏谷に登用され、やがて富士山南麓の開墾を依頼されるまでになる。裏街道の無宿者であった博徒の親分から、公に奉仕する地元の有力者へと転身を図るが、情勢が落ち着くや、新政府は博徒の一斉摘発を始め、次郎長も過去の罪状を理由に逮捕、投獄される。
その次郎長を救い出すため、養子愚庵によってしたためられたのが、次郎長の名を一躍有名にした「東海遊侠伝」であるという。1868年の清水港の咸臨丸事件で、湾に放置された幕軍兵士の死体を、駿府藩がどうすることもできずにいるときに、次郎長が独断で回収して弔い、侠気を見せたというエピソードがある。同作の最大の山場として描かれているというが、これには、戊辰戦争で家族を失った愚庵の強い思いが込められていると、筆者は言う。
次郎長が、山岡鉄舟を師と仰ぎながらも、かなり厚かましいお願いをしたときの拙い平仮名の手紙や、それに気持ちよく応じて同様の平仮名の返事を返した山岡との書簡のやりとりなども興味深く読んだ。(2010.6)


それからの海舟
半藤一利著(2003年) ちくま文庫/筑摩書房
筆者は、生粋の徳川家(とくせんけ)贔屓である。官軍・賊軍と呼ばず、徹底して西軍・東軍と呼ぶ。そして勝海舟の熱烈なファンである。そうした視点から描いた勝海舟の「それから」を追った、歴史書である。
「それ」とは、もちろん、江戸城無血開城を指す。最初の章をだいぶ使って、この偉業が達成されるまでの経緯を説明している。表では、西郷隆盛と会談しながら、その裏で英国大使パークスと会い、万一の折には、慶喜のイギリス逃亡の約束を取り付けていたなど、興味深い。
新政府が誕生し、旧幕臣らが駿府へ移住してからは、勝海舟は、無禄移住の約一万四千人もの人間を食べさせていくための算段をすることになる。新政府からは、外務大丞やら兵部大丞やらの役職を任命されるが、それを固辞し、ひたすら慶喜の謹慎解除を要請し続ける。慶喜の謹慎が解け、西郷が新政府に加わると、勝もようやく新政府の一員となる。が、新政府の面々とはうまくいかず、大した活躍もせずに退いている。
西南の役の後、西郷が逆賊として非難されていた時代にその墓を建てるなど、西郷に対する勝の思いの深さは心を打つ。
また、君主の助命や身の解放のためにあれだけ尽くしたにも関わらず、当の慶喜とはそりが合わず、何度も辛い思いをしたということをさんざん読まされた後、最後に和解の話が出てくるのはなんとも嬉しい。
福沢諭吉が勝を批判した「痩我慢の説」や、これに徳富蘇峰が猛反発したこと、坂口安吾が勝を探偵にして推理小説を書いていたこと(「明治開花安吾捕物帖」)など、知らないこともいろいろあっておもしろかった。(2010.11)


幕末史
半藤一利著(2008年) 新潮社
慶應丸の内シティキャンパス(慶應MCC、慶應義塾の社会人教育機関)において2008年に開催され た特別講座の内容をまとめた講義録。1853年のペリー来航から1877年の西南戦争、翌1878年の参謀本部創設までの幕末史が、話し言葉で書かれてい て、非常に読みやすい。
1930年東京生まれの筆者は、のっけから「反薩長史観」という捉え方を示すが、この一貫したスタンスが潔く、「維新」ではなく徳川家の「瓦解」という言 葉を用いた文豪の表現を好ましいとする。
個人的には、幕末には、歴史の授業よりも小説で興味を持った。ずっと生きていたということでまず「勝海舟」(子母沢寛著)を読んだが、勝海舟は幕臣だし途 中隠居したりするので薩長での細かい動きがよくわからない。で「竜馬がゆく」(司馬遼太郎著)を読むと、竜馬の言動ととともに薩長の動きはよく分かるが、 彼は大政奉還直後に死んでしまうので話もそこで終わってしまう。「燃えよ剣」(司馬遼太郎著)では新選組の土方の目線から戊辰戦争までが描かれたが、西南 戦争や新政府の内情についてはよくわからない。ということで、どれを読んでもどこかが抜けるし、1868年以降の新政府の内部事情についてはわからないと ころが多々あった。
この本は、ペリー来航時の幕府側の対応や四侯と呼ばれた松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光についての説明や将軍になるまでとなってからの徳川慶喜の 言動など、私が読んだ小説ではあまり詳しく描かれていなかった空白の部分を埋め、維新後の新政府の込み入ってごたついた様子を丁寧に解説してくれているの で、なんとなくこんな感じかなあともやもやしていたものがすっと解きほどかれていくようで大変気持ちがよかった。(2009.4)


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