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○ 本 歴史(中国 三国志関連ほか) 

<三国志>関連
完訳三国志(村上知行訳)、完訳三国志(小川環樹・金田純一郎訳)、 読切り三国志(井波律子)
蒼天航路(李學仁、王欣太)、 泣き虫弱虫諸葛孔明<第壱部><第弐部><第参部>(酒見賢一)、
諸葛孔明(陳舜臣)、「三国志」漢詩紀行(八木章好)

関連映画:「レッドクリフ PartⅡ 未来への最終決戦」 「レッドクリフ」

墨攻(酒見賢一)
キングダム(原泰久)

<三国志>関連

完訳三国志
村上知行訳(1972~73年) 社会思想社・教養文庫全五巻(1980~81年) 
教養文庫 完訳三国志一 龍戦虎争の巻
教養文庫 完訳三国志二 孔明出陣の巻
教養文庫 完訳三国志一 天下三分の巻
教養文庫 完訳三国志一 南蛮討伐の巻
教養文庫 完訳三国志一 秋風五丈原の巻
だいぶ前に、通して読んだ。初めて読んだ三国志である。
テンポが早く、1ページの間にどんどん話が進む。登場人物の性格の一貫性とか、心理描写とかがあまりなくて唐突な展開が多い。(酒見賢一氏に突っ込まれるゆえんである。)しかし、この身も蓋も無さがかなり好きだった記憶がある。
「三国志」の成り立ちについて、あとがきに書いてあったのでまとめてみる。
三国志には、「三国志」と「三国志演義」がある。正史「三国志」は晋の陳寿によるもので、下って宋の時代の裴松之がこれに註をつけた。
「三国志演義」については、宋の時代の講談のジャンルのひとつに「説三分」(天下三分のことだ)の話があり、元の時代に「全相三国志平話」という木版の本が出た。上段に挿絵が入って下段に話の筋が書いてあったらしい。また雑劇の題材ともなった。これらを経て、明の時代初期に、作家羅貫中が「三国志演義」という物語としてまとめたとされる。が、その原文がそのまま残っているわけではなく、もっとも古くてもっとも原作に近い刊本は、弘治本と呼ばれるものだが、もっともよく普及している版は毛本(清の時代の毛宗崗による改訂版)と呼ばれるものであるらしい。要するに、「『三国志演義』は、ひとりの人が書いたものでなく、五百年来の講談師や小説家の共同作品だった」と村上知行氏は書いている。(2012.12)

完訳三国志 
小川環樹・金田純一郎訳 岩波文庫全八巻(1988年)
※「三国志演義」(羅貫中)の毛本を底本とするが、弘治本を参考とし、補ったところもあると、あとがきにある。
「蒼天航路」を読んだ勢いで全八巻ざっと目を通す。
以前、現代教養文庫の「完訳三国志」(村上知行訳、社会思想社)を読んだ時は、諸葛孔明亡き後の三国志は本当におもしろくなくなる、言えば、柿崎亡き後の「野望の王国」、オスカル亡き後の「ベルばら」のようなものだと思った記憶があるのだが、今回は、おもしろく感じた。群雄割拠して、曹操が、劉備が、孫権が、そして彼等の陣営の軍師や武将らがあでやかに活躍して、ようやっと孔明の唱えた天下三分の計のとおり三国鼎立となったというのに、それなのに、三国のどこにおいてもろくな後継者が出てこない。魏の王家となった曹氏は、かつて曹操が漢朝の天子を意のままに操ったように司馬氏にいいようにされ、孫家もころころと王が代わるばかりで人物が出てこない。蜀などはたった二代目で魏に降伏して滅亡するというふがいの無さ。この無常感がかなりずんときた。(2012.11)

読切り三国志
井波律子著(1989年) ちくま文庫(1992年)
大方流れをつかんでから読むと、おさらいするのに最適のダイジェスト版である。
巻末に簡潔な年表があって、これもわかりやすい。(2012.11)


蒼天航路 Beyond the Heavens
原作:李學仁(イ・ハギン)、漫画:王欣太(きんぐごんた KING GONTA)
講談社 モーニングKC全36巻 講談社漫画文庫全18巻 (※1994年10月から2005年11月までモーニングで連載)
大人買いして一気読みした。
曹操が主役の三国志。正史、演義、取り混ぜて、独自の解釈や展開や人物も入れて、ひたすら曹操をかっこよく、破天荒で魅力あふれる殿として描く。
例えば、奸雄曹操の真骨頂とされる有名な呂伯奢のエピソード。三国志演義では、呂の家族は曹操をもてなそうと豚を一匹解体しようとしていたのに、刃物を研ぐ音を聞いた曹操は自分を殺そうとしているのだと勝手に思い込み、呂の一家を惨殺する。間違いだったと気づいても、自分は誰にも欺かれるべきではないと豪語する。疑心暗鬼が過ぎる曹操の残虐さを示すエピソードとなっているが、本編においては、それは表向きの話で、実は呂は生きていて陰で曹操を経済的に支えていくということになっている。
三国志の登場人物は膨大な数に上り、名字が同じだったり字が違っても音読みが同じだったりするので活字で読むだけだと混乱し、誰が誰だかわからくなってしまう。
特に曹操陣営の軍師がなかなか把握できなかったのだが、漫画だと顔が見えるし、個性もあるので、覚えやすい。清涼で明るい荀彧(イク)や常に烈火のような激しさを見せる郭嘉、降伏して曹操陣営に加わった百戦錬磨の賈詡(ク)、この3人が特に好きだ。郭嘉の壮絶な軍師ぶりは見応えがあるが、非業の自殺を遂げたとされる荀彧(イク)の死のくだりには、作者の心づかいが感じられて泣けてくる。
武将たちもいい。袁紹との戦いの際、曹操が腹心の武将5人(夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、許褚(チョ))を引き連れて、たった6人で河を渡って敵陣に侵入し宣戦布告をするところなど、実にしびれる。唯一曹操を阿満と幼名で呼び、ため口で話す隻眼の将軍夏侯惇は、豪快で好感度抜群である。
劉備が在野の任侠集団のボス、孫権は地方の広域暴力団の組長といったイメージは、「泣き虫弱虫諸葛孔明」(酒見賢一著)を読んだときに新鮮に映ったのだが、実はこの漫画の方が先だったようで、そうした見方は正史などにおいても窺えるようである。酒見本では、呉は「仁義なき戦い」のパロディぽくなっているが、こっちでは広島というよりばりばりの関西のイメージ、劉備の嫁になる孫権の妹孫夫人は、完全にヤンキーの姉ちゃんである。若き当主としての孫権の扱いもいい。
孔明は、泣き虫弱虫どころか、色物扱いである。赤壁では精神世界で曹操にまとわりついて世紀の戦いをそこだけファンタジーにしてしまう。後半はだいぶまっとうになるが、あまり活躍せず、曹操の死で完結となるので、出師の表や北伐の前に物語は終わってしまう。龐統は、隻腕のニヒルな無頼として描かれ、徐庶は傷跡だらけの坊主頭という異形で登場するが、二人とも出番は短い。
曹操の他に、ことのほか思い入れ強く描かれているのが、呂布と関羽であるというのがうれしい。ドレッドヘアの呂布のルックスは個人的に抱いてきたイメージと違ったが、関羽は「三国志演義」などでもだいぶイメージがはっきりと描かれていることもあって、ばっちり合致した。
周瑜、趙雲、馬超など、男前とされる武将たちは、颯爽としたイケメンに描かれている。一方、張飛や許チョなど、丸顔の豪傑は剛健ながらかわいく見える。特に、典韋亡き後、常に曹操のそばにいて彼を護衛する許褚(チョ)はほんとに愛らしいのだった。(2012.10)

泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部
酒見賢一著(2004年)  文春文庫
孔明を、変人呼ばわりならともかく、「泣き虫弱虫」呼ばわりしている「三国志」などあまり読みたくないなと思ったのだが、読み始めたら、弱虫泣き虫というよりは奇人変人扱いという感じだったのでまあいいかもと思って読み進むうち、あまりのおもしろさ、おかしさに止まらなくなった。
独自の視点から描いた酒見版三国志なのだが、同時に、抱腹絶倒のおもしろ三国志読本といった面も持っていて、何度も笑った。
最初の方で、作者は、吉川英治の「三国志」も、横山光輝の漫画版「三国志」も読んでいないと書いている。和訳された「三国志演義」をつらつら眺めたとある(どの訳かは明記していない)。
そのへんの事情が、全く以て僭越ながら私も同様である。巻末の細谷正充氏の解説によれば、近代日本における「三国志」には、吉川英治の小説「三国志」、横山光輝の漫画「三国志」、コーエーのゲーム「三国志」の三つの柱があるそうだが、私はどれもちゃんと読んで(プレイして)いない。吉川版は八巻もあったので、もっと短いのはないかと探して、社会思想社の現代教養文庫で村上知行訳による「完訳三国志」(それでも全五巻ある)を見つけて読んだ。その後で、吉川英治や岩波文庫の「完訳三国志」(小川環樹、金田純一郎訳、全八巻)も読んでみようと何度か試みたのだが、どちらも1、2巻あたりで止まってしまった。ゲームはやらないし、横山光輝の「三国志」も巻が多すぎるので赤壁の戦いの前後5巻だけを読んだ。結局、最初に五巻全部を読み、その後秋風五丈原までを読み直した村上知行訳の「完訳三国志」が、私にとって最初から最後まで読んだ「三国志」ということになる。吉川三国志は、日本人向けにアレンジされた口当たりのよい筋の通った読み物になっているのだろうなと思いつつ、ぶっきらぼうで唐突で、心理描写とか戦争の状況とか、なんでここでこうなるのかといった気配りのきいた説明がなく、全体のバランスもあまり考えてないだろうと思われる、大陸的な身も蓋もなさにあふれた完訳版がけっこう気に入っている。

そうした個人的な読書事情のせいもあってか、本書を読むと、随所で目からうろこの思い、そうだったのかとうなづくことしきりだった。
徐庶が登場したとき、この人が孔明かと思ったというのも、うなづいてしまった。彼が軍師としての手腕を見せるのは、曹操配下の曹仁軍相手の合戦だけだったのも、孔明の戦法に似ているというのも読んでいて思い出した。劉備が、臥竜、鳳雛の二者を得れば向かうところ敵なしといわれ、その二人を得ながら、結局勝てなかったじゃんというのもうんうんと思った。鳳雛って誰?と思ったり、出てきてもあんまり活躍しなかったよなと思った覚えもある。
三国志には、とにかく人がたくさん出てくる。いろいろ出版されている三国志人物辞典でも買えばいいのかもしれないが、そこまでする気もなく、漠然と読み流して、結局何度読んでも、ほんの一握りの主要人物しか頭に入らない。
曹操が人材とみるとすぐ欲しがったというのはよく知られていることらしいが、この曹操配下の武将や軍師もとにかくたくさんいて、誰が誰やら解らなくなる。特に軍師が把握できないのだが、彼らの名前を挙げてどういう人か説明してくれているのが、ありがたかった。
ところで、私は梟雄と聞いて思い当たる男が3人くらいいるのだが、「三国志演義」の曹操の梟雄ぶりには心底痺れるものがある。しかし、本書において梟雄呼ばわりされているのは、私が読んだものでは仁徳の固まりのように言われていた劉備玄徳その人である。梟雄、梟雄と連発している。
劉備の軍勢を、一つの国というよりは、清水の次郎長一家みたいな侠客の集まり、「劉備一家」と呼んでみたり、劉備が口にする立派な言葉と裏腹な心の声を書き出してみたりと、やりたい放題である。
孔明を巡るエピソードについても真相解明(?)は容赦なく、なぜ臥竜先生と呼ばれ、その住居が臥竜崗と呼ばれるようになったか、孔明の姉の舅でありこれもかなりの奇人である隠者龐徳公(ほうとくこう)が孔明に嫁を取らせるためにどのような画策をしたか、醜女とされる妻の黄氏と孔明との甘い甘い新婚生活の様子や、彼らと同居していいようにこき使われる弟の諸葛均の惨めな境遇など、三国志で知られる事柄の裏事情として書かれていることが、いちいち可笑しい。
第壱部は、「三顧の礼」により、孔明が劉備軍に加わるまでが描かれる。完訳本では、劉備が孔明に会うまでのもったいのつけ方がそれはもうすさまじく、引っ張りに引っ張ってようやく会見を果たす。劉備が二度目に孔明を訪れる際、唐突にミュージカルと化した一連の場面の謎解きが、もう大笑いである。劉備らの行く先々で、男たちが歌を歌っているのはなぜかということを理に叶うように追求していけば、このような結論に達するのだろう。

そして、これも巻末の解説にあるが、作者は物語の途中で量子論的ブレについて言及している。突然「量子論」という他ジャンルでなじみ深い言葉が出てきて驚いたのだが、量子論の拡散と収縮という現象は、妙に文系人間の哲学的考察を刺激するところがあるのではなかろうか。(といっても、私自身は物理や数学といった理系の学問のみならず、哲学の本もちんぷんかんぷんでほとんど読めないのだが。)作者がここで量子論を持ち出したのは、一度「三国志」を書いてしまうと、自分にとっての三国志が確定してしまうということである。あれこれ解釈のできる物語が、たったひとつの解釈に限定され自由を失ってしまうのではないかと危惧する。だからといって、書かないでああでもないこうでもないといっていれば可能性は無限に広がるが、それはあくまで可能性で、いつまでたっても実体を持たない。
が、解説にもあるように、三国志は、そうしたことすべてを内包することのできる稀有な物語であると言える。つまり、拡散した重ね合わせの状態でありながら、それぞれが実体を持った作品として受け入れられるだけの、度量の大きさを持っているのである。(2011.4)


泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部

酒見賢一著(2007年) 文春文庫
三顧の礼により出蘆した孔明が、劉備軍に加わり、大所帯となった劉備一行を率いて曹操軍から逃れるまでを描く。趙雲と張飛が活躍する、巻末の長坂坡の戦いが読みどころ。
壱部に引き続き、容赦なくつっこみを入れる軽快な語り口はますます好調である。劉備軍の無秩序・無計画ぶりには止めどなく拍車がかかり、呉においてはすっかり東映実録路線の様相を呈してきている。孔明が亡き父の後継ぎ争いで窮地に立った劉琦(劉表の息子)にアドバイスをする場面で「エヴァンゲリオン」(よく知らないのだが、「残酷な天使」といえばそれしかないと思われる)を引き合いに出すに至っては「捨て身やな、自分」と思わずこっちがつっこみたくなるほどの突っ走りぶりである。
孔明は、劉備からあれだけの熱意を持って登用されながら、提案した策はことごとく退けられ、週休3~4日で劉備本営に通勤していたという意外な実情が暴かれる。この時期に孔明は、鳳統と呉の山林地帯に野宿して、植生の研究にいそしむのだが、それくらい暇だったということらしい。
やがて、曹操軍はついに南攻を開始し、劉備軍は荊州を発って江陵と見せかけて実は夏口に逃れる。だが、その際十余万もの民衆が付いてくるという前代未聞の事態に陥り、劉備を乗せた恐竜戦車(孔明が妻の黄氏に命じて作らせた堅固な箱型牛車)を先頭に1日たったの5キロという信じがたいのろさで進む。巻の後半は、こうした劉備軍の移動の異常さと長坂坡の戦いに至るまでを描くことに費やされている。「三國志」でも「三国志演義」でもわずかな表記で終わる部分に、著者はあえてこだわって、こと細かに検証し、突っ込みまくっていく。趙雲と張飛の伝説についても言いたい放題だが、たっぷり書いてくれているのは結局うれしい。(2011.6


泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部
酒見賢一著(2012年) 文藝春秋
第3部は、「三国志(演義)」最大のヤマ場と言ってもいい、赤壁の戦いを中心に描く。
赤壁の戦いは、正史においては、ほとんど記述がなく、実際どのような戦いであったか定かではないという。「三国志演義」においては、孔明が大活躍する見せ場であるが、呉の降伏論者たちと孔明の舌戦も、3万本の矢を得る秘策も、七星壇での風を呼ぶ祈祷も、すべて「三国志演義」において作られた話とされる。実際は、曹操軍と呉軍の戦い、曹操の敵は周愈であって、劉備や孔明が出る幕はなかったという。が、「演義」の面白読本の一面も持つ本作は、あくまでも「演義」の内容に即して展開する。
周愈は、若く有能な武将として登場しながら、孔明に対しては理由もなく一目見て殺意を抱いてしまう。颯爽としたイケメンの周愈が、孔明に対してのみ間抜けになるという演義の構図がそのまま描かれている。これに関しては、なんか、こう、もっと、秀逸な解釈がほしかったような気もする。
冬のさなかに東南の風を得るために孔明が行う風招きの祭りは、他の作家が避けて通る、三国志作家の「鬼っ子」のようなものだと著者は言う。「演義」の孔明は、七星壇を建て、大仰な儀式を行い、風を呼ぶ祈祷をする。昨今の三国志では、孔明は気象予想士としての知識を持っていて、この時期に一瞬東南の風が吹くことを知っていたのだとするものが多く見られるというのは確かで、映画「レッドクリフ」でもそうだったと思う。本作でも周愈は孔明が風を吹く日を知っているのか、本当に風を呼ぶのか、知識か術かと魯粛に問う。が、著者は、この時期に一瞬東南の風が吹くことを知っていても、正確な日にちまではわかるまい、呉軍が望む日の夜に偶然吹いたとするのはいかがなものかということで、敢えて孔明の風招きの術を取り入れてみせる。孔明のオカルトパワーをありとすれば、その方が筋は通るのだ。これはこれで潔い判断だと思った。
呉の人々の「仁義なき戦い」ぶりは最初は可笑しかったが、ずっと続くとだんだん煩わしくなってくる。特に魯粛の広島弁はもういいから標準語でしゃべってくれ!と叫びたくなるのだが、乗りかかった船でこれで通すしかないんだろうなと思いつつ、途中でいつのまにか標準語になっていても多分大丈夫、みんな気づいてもなにも言わないんじゃないかとも思うのだが、そうでもないんだろうか。
ということで、赤壁の戦いに関しては、量子論的なぶれが少ないのか、著者による奔放な解釈はあまり見られなかった。漢中の戦い、荊州の争奪、南征、北伐とこれからの展開に期待したい。(2013.1)

諸葛孔明
陳舜臣著(1991年) 中公文庫 上・下(1993年)
孔明は、「三国志演義」でも妖術のようなものを使ったり、敵味方関係なく人をへこませては高笑いをしたりと、だいぶとぶっとんだところのある人になっている。さらに「泣き虫弱虫諸葛孔明」「蒼天航路」を立て続けに読んだせいで、ますます奇人変人ぶりが強調された孔明像に接することになったのだが、この小説では、普通に立派な人としての孔明が描かれていて、なんだかとてもほっとした。
軍略よりも施政に長け、曹操の才を評価しながらも徐州での大虐殺ゆえに彼に付くことを拒み、少々頼りないところもあると思いつつ、仁徳の人劉備に忠義を尽くす。出師の表を読んで泣くという、ごくまっとうな三国志の味わい方ができたように思う。
赤壁の戦いでも、三寸不爛の舌で呉の降伏支持派たちの言い分をことごとく論破したり、「3日で矢を十万本手に入れて見せましょう」と豪語してまんまと敵の矢を奪ったり、七星壇を築いて大仰な祈祷をしたりすることもない。ただ、孫権と事前打ち合わせをして、孫権が決意表明の際に机を叩き斬るという演出を提案する。こうした根回しは、南征における孟獲相手の七擒七縦(しちきんしちしょう・ななつかみななゆるし)でも施される。使用人を装って孔明の身辺に潜入していた孟獲の正体を見破った孔明は、蜀漢の南征について孟獲と話し合い、人心を得るためにどのように戦いを進めるか、事前にシナリオをつくって臨んだということになっている。
孔明の父諸葛珪や伯父諸葛玄についての言及がたくさんあり、孔明が少年時代によく口ずさんだという梁父吟も紹介されている。また諸葛珪の執事甘海や珪に恩義を感じている仏教徒軍団の浮屠(ふと)らが各地を旅して孔明に情報を提供していたことなど、三国志にはなかった孔明のことや、当時の行政区や役職などについての説明があるので、いろいろわかっておもしろかった。(2012.12)

「三国志」漢詩紀行
八木章好著(2009年)、集英社新書
三国志にちなんだ漢詩を取り上げ、丁寧に解説している。
冒頭で、「三国志」の概要を説明、正史「三国志」と、小説「三国志演義」の成り立ちを説明し、両者の違いにも触れる。
取り上げている詩文は、曹操の「短歌行」、曹植の「野田黄雀行」、王粲の「七哀の詩」、杜甫の「蜀相」、杜牧の「赤壁」、蘇軾の「念奴嬌 赤壁懐古」と 「赤壁の賦」など。
「短歌行」は、「三国志演義」では、赤壁の戦いの直前に曹操が酒に酔って船上で詠んだとされるが、実際は赤壁の戦いの後に詠まれたものだそうで、優れた人 材を切望する曹操の気持ちが強く表れている。また、曹操の三男で優れた詩人であった曹植は、後継者争いから実の兄曹丕に迫害される生涯を送ったが、「野田 黄雀行」には、そうした悲しい境遇にあった彼の心情がひしひしと伝わってきて切ない。
そして最後に、「危急存亡の秋(とき)」で有名な諸葛孔明の「出師の表」。「これを読んで泣かない者は忠臣でないとまで言われた天下の名文」の詳しい解説 は、ファンにとってたいへんありがたい。(2009.5)

墨攻
酒見賢一著(1991年)
新潮文庫
登場人物:革離(墨者)、牛子張(梁の将軍)、梁渓(梁城城主)、梁適(梁渓の息子)、瞭姫(梁適の恋人)、巷淹中[こうえんちゅう](趙の将軍)、微詳(巷淹中の副官)、高賀用(巷淹中の副官)、墨翟[ぼくてき](墨子教団の創始者)、田襄子[でんじょうし](墨子教団巨子)、薛併[せつへい](墨子教団の論者)
春秋戦国時代(BC770~BC221年)の中国。「墨守」(固く守る意)の語源となったと言われる墨子教団は、非攻を信条とし、城を固く守ることで知られていた
当時の教団の巨子(くし、教団の長)田襄子は、歴代の巨子と違って政治的な志向を持ち、勢力を広げつつある秦国に依りその力を利用して教団の拡大を図ろうとしていた。そうした野望を快く思わない教団の精鋭革離は、田巨子の意志に逆らい、単身田舎の小国梁に赴く。猛将巷淹中が率いる趙の軍勢を迎えるため、革離は、戦闘に関して全くの素人である邑人達を統制し、指示を与え、梁城の守りを固めていく。
本書の面白さは、次々に紹介される墨子教団の籠城戦術にある。革離は、強固な守りは民の団結にあるという信条に従い、強力な軍事独裁体制を敷く。昼夜を問わず働いて防備の指示を与え、賞罰を徹底し、儀式や占いも利用して、民心を掴んでいく。男女別に5人の伍、伍を2つ合わせて什、什を10合わせて伯という班をつくり、それぞれに長を任命する。(伍長という言葉はここから来ていると思われる。)外城をめぐらし、塹壕を掘り、校機(投石機)、渠答、連弩車、衝車といった様々な兵器をこしらえる。敵の穴攻(トンネルを掘って城内に進入する作戦)を見破るための「地聴の法」などは、ひたすらほうと感心するばかりだ。
映画を見逃してしまい、マンガを読もうと思ったら巻が多すぎるので、1冊におさまっている原作小説を手にしたのだが、厚さ7mmあるかないかの文庫本に、とてつもなく濃い中身がつまっている。文章はそっけなく、人間ドラマの部分など膨らまそうと思えばいくらでも膨らませそうな題材を、ほとんど墨子教団とその戦略の実際の説明のみに終始している。主人公革離同様、無駄がなくて潔い。(2007.5)

映画化:墨攻(中国/日本/香港/韓国、2006年、監督:ジェイコブ・チャン、主演:アンディ・ラウ)
マンガ:墨攻(酒見賢一・久保田千太郎・森秀樹著、小学館文庫全8巻、ビッグコミックス全11巻)

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