みちのわくわくページ

○ 本 ミステリ(海外) さたな行

<作家姓あいうえお順>
誘拐 P分署捜査班(マルリツィオ・デ・ジョバンニ)、 犯罪(フェルディナント・フォン・シーラッハ)、 明日なき報酬(ブラッド・スミス)、 僧正殺人事件(S・S・ヴァン・ダイン)、 異常(アノマリー)(ル・テリエ)、 アウトロー(リー・チャイルド)、 13・67、世界を売った男(陳浩基)、 ぼくを忘れたスパイ(キース・トムスン)、 最終楽章(トム・トーパー)、 深夜のベル・ボーイ(ジム・トンプソン)

誘拐 P分署捜査班  Buio
マウリツィオ・デ・ジョバンニ著
直良和美訳
蔵元推理文庫(2021) キンドル版

<ピッツォファルコーネ署の面々>
ルイージ・パルマ:ピッツォファルコーネ署長
ジョルジョ・ピザネッリ:同副署長。自殺に見せかけた連続殺人犯を独自に捜査中。
ジュゼッペ・ロヤコーノ:警部。アーモンド形の目などの容貌から“中国人(チネーゼ)”と呼ばれる。離婚歴あり。娘と同居している。
オッタヴィア・カラブレーゼ:副巡査部長。インターネット情報係。主婦で母。
フランチェスコ・ロマーノ:巡査長。暴力を振るって妻に離婚されたが、納得していない。
アレッサンドラ(アレックス)・ディ・ナルド:巡査長補。若い女性。射撃が得意。
マルコ・アラゴーナ:一等巡査。気取り屋でおしゃべり、傲慢だが、核心をついてくることもある。
ジョバンニ・グイーダ:巡査。だらしない怠け者だったが、ロヤコーノの一括でまじめになる。
ラウラ・ピラース:検事補。ロヤコーノと両思いだが、双方とも思いを打ち明けられずにいる。
マリネッラ・ロヤコーノ:ロヤコーノの娘。母と暮らしていたが、家出してきて父のもとに身を寄せている。
レオナルド・カリージ:神父。ピザネッリの友人。
<誘拐事件の関係者>
ドド/エドアルド・チェルキア:10歳の少年
アルベルト・チェルキア:ドドの父
エヴァ・ボレッリ:ドドの母。富豪の娘
マヌエル・スカラーノ:エヴァの恋人、画家
エドアルド・ボレッリ:資産家。エヴァの父、ドドの祖父

イタリア、ナポリを舞台にした21世紀の“87分署シリーズ”と紹介文にある。
不祥事を起こして解雇された警官らの代わりにはみだし者の警官を集めて再生を図るピッツォファルコーネ署(名前が覚えられない)。その管轄内で誘拐事件が発生。資産家ボレッリの孫の10歳の少年ドドが、野外授業先の美術館から一人の女性によって連れ去られ、やがて誘拐犯から身代金を要求する電話がかかってくる。
少年の誘拐事件、スポーツジム経営者夫妻の留守宅で起こった空き巣事件、ピザネッリ副署長が独自に追う連続殺人事件と、3つの事件の捜査の様子が描かれるが、3番目の事件はみんなにピザネッリの妄想と思われている。
入れ替わり立ち代わり署のメンバーのそれぞれの視点から話が進み、その間に誘拐犯側の男女や被害少年の母、父、祖父の様子も入れてくるので、登場人物が入り乱れる群像劇となっている。署のメンバーはそれぞれに個性があっておもしろい。
ところどころ出てくる世間を俯瞰するような第三者目線の語り(「五月を信用してはならない」を決まり文句にばらばらのエピソードをつぎつぎに語る18章のくだりなど)や、ルイージとオッタビオ、ロヤコーノとライラのもどかしい大人の恋愛事情など、かなり情緒的な描写もあり、またアラゴーナが実は裕福な家庭の出という設定は要るのかとか、読者に突然明かされる犯人とか、どうもバランスがあまりよくないように感じる部分もあるのだが、憎めない。
1作目は読んでいないが、読んでいなくてもすんなり入り込める。
ラストにちょっと唖然とする。一応謎は解けるが、解決には至らず、次作へ続くのかもいまいちはっきりしない。連ドラじゃないのだから、一話完結にしてほしいところだ。(2022.5)
<参考作品>「キングの身代金

犯罪  VERBRECHEN
フェルディナント・フォン・シーラッハ著(2009年)
酒寄進一訳 創元推理文庫(2015年)

弁護士である「私」が手掛けた事件の顛末を語るという形をとった、犯罪短編小説集。著者はドイツの弁護士である。事件の真相を追うミステリというよりは、人はどのような状況で犯罪を犯すか、人を裁くしくみとはどういうものか、といった視点から犯罪を描いている。不可解な事件の裏に、見た目とはかけ離れた人の本質があったり、また切ない思いがあったりと、なかなか刺激的である。(2017.3)
★フェーナー氏
・長年、妻の仕打ちに耐えてきた男は、離婚するよりも妻との誓いを優先した結果、思わぬ手段を取ったのだった。
★タナタ氏の茶わん(※原本は、「怨+皿」の漢字)
・資産家の家に盗みに入った若者らが、現金とともに金庫にあった茶碗も盗ってしまったことから、町のボスを巻き込んだ大惨事へと発展する。
★チェロ
・資産家の父親の元で育った姉妹の悲惨な運命と切ない姉弟愛。姉の弾くチェロの音が弁護士の「私」の心に沁み入る。
★ハリネズミ
・カリムは、レバノン人の犯罪一家の9人兄弟の末弟である。彼は、その比類ない頭のよさと自ら身に着けた教養をひたすら押し隠し、法廷で証人となり、有罪の兄を無罪になるよう策を巡らせる。
★幸運
・イリーナの「客」である男が死んでしまい、恋人のカレは、イリーナを庇うために死体を遺棄する。男は病死であり、カレは死体遺棄の罪に問われるが、その動機はイリーナへの愛ゆえであったため、二人は釈放される。
★サマータイム
・借金を負った麻薬売人の恋人のために身を売る女。彼女が惨殺死体で発見される。彼女の「客」が容疑者として浮上するが、監視カメラの映像の時刻を見た弁護士の「私」は、サマータイムによる時間のずれから、依頼人の無実を証明する。が。
★正当防衛
・駅のホームで絡んできたチンピラ二人を瞬時に殺した男。身元を証明する手立ては何一つなく、男は沈黙を守り続けた。過剰防衛というわけにもいかず、男は釈放される。事件後の警察の対応も含め、たまたま絡んだ相手がプロの殺し屋だったらどうなるか、という話か。
★緑
・人や動物が数字に見えるという若者が、羊を何頭も殺す。彼の知り合いの女性が行方不明となり、関係者は騒然となるが。
★棘
・長い年月に渡って、「棘を抜く少年」の像のあるホールのみで警備の仕事を配された美術館の警備員は、精神に異常を来たし始める。清潔で明るいホールにおいて、長い長い年月を経た上で行われる破壊行為が痛々しく、強烈だった。
★愛情
・殺意ではなく、愛する者を食べたいという衝動から、恋人を刺した男の話。
★エチオピアの男
・強盗をして国外に逃亡した男は、逃亡先のエチオピヤの村で人々のために尽くし、家族を得て、村の功労者となる。過去の罪で逮捕された彼はそれまでのことを語るたびに一笑に付されるが、弁護士の「私」は彼の話を信じた。


明日なき報酬 One-Eyed Jacks
ブラッド・スミス(カナダ 2000年)
石田善彦訳 講談社文庫
1950年代の終わり。故郷へ戻った元ヘビー級ボクサーのトミー・コクランは、祖父の農場を買い取る金を手に入れるため、再びトロントの街を訪れる。八百長疑惑を 受けた試合を最後に引退したトミーの出現を機に、試合のプロモーター、売り出し中の新人ボクサー、小悪党のポルノ映画監督、ギャンブラー、街のチンピラ、 などさまざまな人間の思惑が入り乱れる。
善玉と悪玉が実にはっきりしている。博打の元締めやプロモーターなど、中立を保ちビジネスに徹する人々に対しても作者の大いなる好感が感じられる。特にクールなプロモーター、ブラディの存在感は大きい。
トニーの相棒Tボーンと、粋でおしゃれなギャンブラー、ハーム・ベルとの友情が泣かせる。
元恋人同士のトミーとクラブ歌手リーがなかなか再会しないのもいい。
ラストは、期待していた試合が行われず、ちょっと珍しい展開。(2003.7)


僧正殺人事件 THE BISHOP MURDER CASE
S・S・ヴァン・ダイン著(1929年)  日暮雅通訳 創元推理文庫
本格推理の古典。江戸川乱歩の「探偵小説の「謎」」に触発されて読む。
−だあれが殺したコック・ロビン?  「それは私」とスズメが言った。
有名なマザー・グースの詩の内容に沿って行われる連続殺人を扱った、有名すぎる作品。
読んでみると、チェスやイプセンの戯曲や数学者たちの数式や量子論をめぐる論議が絡んでくるなど、多彩な内容が盛り込まれている。容疑者となる学者たち(数理物理学教授ディラード、数学准教授アーネッソン、物理学者ドラッカー、数学者パーディ)も、捜査側の面々(探偵役のファイロ・ヴァンス、マーカス検事、ヒース部長刑事ら)も、地味ながらそれぞれ個性的に描かれていて退屈しない。
見立て殺人の異様さとともに、後半畳みかけるように容疑者が二転三転していく展開が秀逸。(2012.7)
<引用されるマザー・グースの歌と被害者(被害者は白字で記しているのでドラッグすると読める)>
・「だあれが殺したコック・ロビン?」(駒鳥の死と埋葬を悼む唄)(
アーチェリー選手:ジョーゼフ・コクレーン・ロビン
・「小さな男が昔いた」(大学生:ジョン・E・スプリッグ
・「ハンプティ・ダンプティ」(数理物理学者:アドルフ・ドラッカー
・「ジャックの建てた家」(数学者でチェスの名手:ジョン・パーディー
・「かわいいマフェットちゃん」(少女:マデラン・モファット

アウトロー ONE SHOT
リー・チャイルド著(2005年)
小林宏明訳 講談社文庫 上・下
元陸軍警察官のジャック・リーチャーを主人公とするシリーズ9作目。
トム・クルーズ主演の映画「アウトロー」の原作である。
地方都市で起こった無差別狙撃殺人事件。
容疑者のジェームズ・バーは、かつて軍内部でリーチャーが解決した狙撃事件の犯人だった。
リーチャーはバーの犯行を確信するが、捜査を進めるうちに、矛盾点が次々に現れてくる。
原作のリーチャーは、捜査官としての腕は高く、戦闘能力にも優れているが、トム・クルーズより年配で地味な感じ。社会とのつながりを断ち、町から町へと渡り歩いて質素に生きている。身を隠す術に長け、相手の動きを読むのがうまい。
敵のザックと殺し屋チャーリー他の一味や、サンディやキャッシュなど好感度のある脇役は、映画にも出ていたが、兄の無実を信じるジェームズ・バーの妹ローズマリー、リーチャーに好意を持って捜査に協力する地元テレビ局の人気キャスター、アン・ヤンニ、ベテラン調査員のフランクリンなどは映画には出てこない。彼らはそれぞれの立場からリーチャーの捜査に協力し、最後の敵の本拠への襲撃では、リーチャーとヘレンとかれら3人がチームのように力を合わせて活躍する。
ミステリー&活劇として楽しめた。(2013.5)


13・67
陳浩基(ちんこうき、サイモン・チェン)著(2014)  
天野健太郎訳 文藝春秋(2017)

★ややネタバレ気味★
「天眼」と呼ばれる香港警察のクワン上級警視が関わった事件を逆編年体(リバース・クロノロジーというらしい)で描く連作短編推理小説集。若いころに功績が評価され2年間ロンドンに留学し、その後香港警察の捜査情報部(CIB)Bセクションの課長となったクワン(關振鐸・クワンザンドー)は数々の事件を解決、リタイア後も嘱託の特別捜査顧問として警察に残り、後輩たちにアドバイスをしていた。
タイトルは、2013年と1967年の意味。2013年は雨傘革命の前年、1967年は反英闘争が激しさを増した年であるらしい。
最初の1話は、クワンを師と仰ぐロー警部(駱小明・ローシウミン)を中心に話が進み、2話ではロー警部の仕事にクワンが大きく絡んできて、3話、4話、5話はクワンが主役、6話はクワンが20歳のときの話となっている。それぞれがミステリとしておもしろく、ひねりの利いたラストを迎えるが、内容がみっしりと詰まっているので、すらすらとは読み進めない。
5話までは、香港の社会的事情が背景としてうっすら示されるが、6話は反映闘争に揺れる香港の様子がかなり濃厚に描かれている。香港の地名や通りの名前が丁寧に記されているので、歴史とともに香港の地理を知っていればより楽しめそうである。(2018.8)
○黒と白のあいだの真実 黒與白之間的眞實
2013年。資産家一族の屋敷で、殺人事件が起こる。豊海グループの総帥阮文彬(げんぶんひん)が書斎で自分のスピアガン(釣りに使う銛を放つ銃)で撃たれて死んでいたのだ。捜査を担当しているロー警部は、屋敷の関係者たちをとある病院の病室に集める。病室には末期癌で昏睡状態にある老人がベッドに横たわっていた。この老人こそ、かつての香港警察の名探偵クワンであった。ロー警部は、クワンの頭に取り付けた脳波測定器とパソコンをつなぎ、イエスかノーかの反応がわかる装置を考え出し、その場で事件の状況説明と関係者たちの証言をクワンに聞かせ、犯人を推理してもらおうというのだ。異様な状況の中で、屋敷に居合わせた人々の証言が始まる。資産家一族の家族の間の隠された過去とともに、被害者に長年寄り添い、家人らから棠おじと呼ばれて頼りにされてきた執事王冠棠(おうかんしょう)の心のうちが明かされていく。
○任侠のジレンマ 囚徒道義
2003年。凶悪犯罪捜査係の隊長に抜擢されたローは、他の部署と合同で行った大掛かりな麻薬取締作戦に失敗し、落ち込んでいたが、彼の教官でもある捜査顧問のクワンはそんな彼を励ます。香港を牛耳るマフィア洪義聯(こうぎれん)の新しいボス左漢強(さかんきょう)は、芸能プロダクションを始め表の世界で手広く商売をする一方、裏では麻薬密売などの犯罪に手を染めていたが、警察はなかなか尻尾をつかめずにいた。左との跡目争いに敗れた任徳楽(じんろくらく)ら古くからの構成員の一部は左と袂を分かって別組織興忠禾(こうちゅうか)を立ち上げ、両者は対立していた。ある日、任の息子である男優が、左のプロダクションの売れっ子アイドル歌手唐頴(とうえい)に手を出して報復を受け、その後唐頴が行方不明となり、同時に彼女が人気のない歩道橋で深夜何者かに襲われ転落死する様子を撮った動画が出回る。唐頴は殺されたのか、殺したのは任の手下か、それとも左が? クワンは、ローに驚愕の真相を明かすのだった。
○クワンのいちばん長い日 最長的一日 The Longest Day
1997年。香港の中国への返還を目前に控え、クワンは退職の日を迎えた。その日、マーケットでの薬物散布事件と凶悪犯脱走事件が起こる。マーケットでは、薬物を浴びて火傷を負った被害者数名が病院に運ばれる。また、刑務所に服役していた凶悪犯の石本添が、診療で訪れた病院から刑務官の目を盗んで逃走する。クワンは、薬物散布事件の被害者の様子を聞くとともに、石を警護していた二人の刑務官の供述の様子を撮ったビデオを見て、真相に迫っていく。2つの事件にはつながりがあったのだ。
○テミスの天秤 泰美斯的天秤 The Balance of Themis
1989年。凶悪犯石兄弟の一味がとあるビルに潜伏しているという情報を得た香港警察は、ビルの出口ごとに捜査員を配備し、張り込みを開始する。指揮官のコー警部部長から、北側の張り込みを命じられたTTことタン警部は2人の部下(一人は刑事となったばかりのロー)とともにビルの北側の出入口向かいの弁当屋で張り込みを続けていたが、普段から無鉄砲に暴走することの多い彼は、石兄弟が姿を現し逃走しそうだという連絡を受けると、待機の支持を無視してビル内に突入する。凄惨な銃撃戦が起こり、TTは負傷し、人質となったビル内のホテルの客たちは全員殺されてしまう。捜査の責任はコー警部部長に負わされ、さらに彼には石兄弟に警察の存在を密告して逃走を助けた疑いがかけられる。クワンは、コーに彼の無罪を信じていると告げ、さらに真犯人のもとを訪ねる。銃撃戦にはある謀略が仕組まれていた。ポケベルを使った連絡が時代をうかがわせる。
○借りた場所に Borrowed Place
1977年。香港廉政公署(ICAC。香港警察の不正を捜査するイギリスの機関)の調査主任であるグラハム・ヒルの息子が誘拐される。彼は、イギリス本国で事業に失敗して借金を追い、妻と幼い息子とともに香港にやってきたのだった。クワンと部下がヒルの自宅を訪れ、捜査にあたる。身代金を要求する電話がかかってきて、ヒルは単身、犯人の要求に従って受け渡しに赴くが、失敗に終わる。絶望的な雰囲気の家に、ベビーシッターのリズと息子のアルフレッドが何事もなかったように帰ってくる。クワンは、リズの言動から彼女の背後にいる意外な犯人とその目的に気づくのだった。
○借りた時間に Borrowed Time
1967年。左派勢力(中国側)による反英運動が高まり、香港市内では、左派グループによる爆弾テロが頻繁に起こっていた。商店主の家に間借りし、店の手伝いをして糊口をしのいでいた貧しい若者の「私」は、同じ下宿に住む若者が左派グループに加わり、爆弾テロを企てていることをたまたま知ってしまう。店に巡回にくる顔なじみの若い警官アチャに打ち明けた彼は、アチャに協力し、犯人が落としたメモを手掛かりに爆弾が仕掛けられた場所と時間を突き止め、爆破阻止のために奔走する。
誰もが「私」はクワンだと思っていると、意外なこととなり、物語は一挙に2013年へつながっていく。

世界を売った男 The Man Who Sold the World
陳浩基(ちんこうき サイモン・チェン)著(2011年)
玉田誠訳 文春文庫(2018年)

第2回島田荘司推理小説賞を受賞した、台湾の作家の香港を舞台にしたミステリ。
2003年、香港。マンションの一室で夫と妊娠中の妻が刃物で惨殺されるという事件が起こる。夫の浮気相手の女性の夫で前科のある男林健笙(ラム・ケンサン)が容疑者として浮上する。
事件を捜査していた香港警察の許友一(ホイ・ヤウヤツ)刑事は、ある日、目覚めると世界は2009年になっていた。事件は、林が車で逃走中に事故を起こし、多くの人を巻き込んで死亡するという悲劇的な結末で収束していた。6年間の記憶を失くした許刑事は、しかし、林が犯人であることに違和感を覚えた。そこに、事件のことを取材している女性ジャーナリスト蘆沁宜(ロー・サムイー、愛称阿沁(アッサム))が現れる。事件は映画化が決まっていて、それに乗じて彼女は事件についての古い記事を調べていたのだ。許は、彼女と行動を共にし、被害者夫婦の娘や妻の姉に会いに行くこととなった。一人称語りの記憶喪失ものというのはどうも語り口に違和感があって、なにかしら罠がしかけられているものだという思いがあるのだが、案の定、本作もそうで、途中からおおよそ見当がついてしまった。素直にだまされれば、おもしろく読めたのにと思った。
しかしまあ、最後の最後の犯人の思い込みまでは予想してなかったし、ひねりが徹底していると思った。
香港島の繁華街の雑然とした街並みや本土の新界の静かな郊外の様子などいろいろな香港の風景が描かれているのがよかった。また、香港映画の撮影所が出てきたのもうれしく、詠春拳の使い手であるスタントマン閻志誠(イム・チーシン)が、自分でそれと意識しないですごいアクションをやってのけるのは、なかなかおもしろかった。
孤独な若者が、自分を気にかけてくれた男の無実を信じて彼の無念を晴らそうとする思いに泣ける。
阿沁が、妙にあっけらかんとしていて言動に不自然さを感じたのだが、あれは、著者にとって、かわいらしくて好感の持てる女性のイメージということなのだろうかと思うと、なかなか興味深かった。
タイトルは、デビッド・ボウイの歌から来ている。(2019.12)

ぼくを忘れたスパイ Once a Spy
キース・トムスン著(2010)
熊谷千寿訳 新潮文庫(上・下)(2010)

チャーリーは、ちゃんとした職にも就かず、競馬に狂って暗黒街のボスに多額の借金を背負っている。彼は、早くに母を亡くしたが、父は洗濯機のセールスマンでほとんど家にいず、あまり顧みられなかったという記憶しかない。借金の返済のため、チャーリーは年金目当てに疎遠になっていた父を訪れるが、いきなり正体不明の連中に命を狙われ、親子二人での逃亡と戦いの日々が始まる。
60代で認知症に罹った父は、元凄腕のスパイだった、という設定だけで展開する、オフビートな親子バイオレンス逃走活劇。
普段はぼけぼけでも、窮地に陥るととびぬけたスパイの腕前を発揮する男前の父と、だめ人間と思いきやなかなか機転が利いてすばしこいチャーリーのコンビがなんとも楽しい。はずなのだが、なぜか、読んでいてあまりわくわくしない。割とえげつない展開の割にノリが軽すぎるのか、どうせまたなんとか逃れるんだろうと思わせすぎるのか、秀逸な設定の割にそんなには盛り上がらなかったというのが正直なところだ。(2021.5)

最終楽章 Coda
トム・トーパー作(アメリカ 1984年)
石田善彦訳 サンケイ文庫
ニューヨークの私立探偵ケヴィン・フィッツジェラルドは、恋人のジャーナリスト、フィオナからユダヤ人の老女リリ・ウェイルを紹介される。 リリは、彼に有名ピアニストの夫マックスの捜索を依頼する。マックスは、大戦中アウシュビッツで処刑されたはずだったが、リリはその夫の姿を何度となく街で見かけたというの だ。老婦人の切なる願いに端を発した捜査は、やがて国務省やCIAが絡む国家機密へとつながっていく。
過去の辛い経験から人をよせつけず、孤独に生きるフィッツジェラルドは、戦争の傷を負いつつもひたむきに夫を想い続けるリリの生き方に次第に心を動かされていく。二人の間に交わされる静かでやさしい交流の記憶が、苦いラストにわずかな救いを与える。
リリを始め、その夫マックス、フィオナ、豪快な音楽エージェントのエイゼンバーグ、マックスのかつての教え子ロンニ・ギブスン、東ドイツの外交官ヒルシュ、国務省職員のクラインマンなど多彩な登場人物がそれぞれに個性を発揮。例えば本筋とはまったく関係なく、いきなりフィッツジェラルドの前で展開される家出娘ロンニとその厳格な母親との対決などなかなか楽しい。何とか二人を和解させようと無理矢理ジョークを言い出す探偵の姿がおかしい。
フィッツジェラルドの交友関係や過去の出来事が親切すぎず、適度に説明不足気味なのもよい。(2003.6)


深夜のベル・ボーイ A Swell-looking Babe
ジム・トンプスン(アメリカ 1954年)
三川基好訳 扶桑社
ダスティは、ホテルの夜詰めのベルボーイとして働いている。教職を失い廃人同様となった父親の世話をするため、彼は大学に戻って医者になるという夢を半ばあきらめかけていた。
ある日、ホテルに一人の美女が現れたことで、彼の運命は変わっていく。ダスティは、ホテルの常連であるギャングのボスと関わらざるを得なくなりやがて犯罪 に巻き込まれていく。
容姿端麗で知的な青年ダスティは、その生い立ちも含め、相当複雑な人間として描かれる。ダークな部分とうぶな部分を併せ持つ彼の、これまでの言動についての真相が少しずつ少しずつ明かされていく過程は、かなりスリリングである。
読み終えたときの後味の悪さはなかなかのものだった。(2003.8)

本インデックスへもどる

トップページへもどる