みちのわくわくページ

○ 本 ハードボイルド(海外) ダシール・ハメット 

血の収穫  新任保安官
雑文:「小説家・逢坂剛」に触発されて、ハメットの「マルタの鷹」と「ガラスの鍵」を読み返す
 小説家・逢坂剛(逢坂剛)、マルタの鷹(ハメット)、「マルタの鷹」講義(諏訪部浩一)、ガラスの鍵

血の収穫 Red Harvest
ダシール・ハメット作(1929年)
田中西二郎訳 東京創元社(あるいは「赤い収穫」小鷹信光訳 ハヤカワ文庫)
「ポイゾンビル(毒の町)」と呼ばれる町にやってきたコンチネンタル探偵社の調査員(「私」)は、町に到着するや否や依頼人が殺されるという事件に遭遇する。
「私」は、かつての町の「帝王」である老富豪に、ほぼ無理矢理、町の「浄化」を依頼させる。
町は、ギャングのホイスパー、酒密売の元締めピート、金貸しのルー・ヤード、警察署長のヌーナンらによって牛耳られていたのだ。
「私」は、彼等を対立させ互いにつぶし合わせることで、一気に問題を解決しようと試みる。
むちゃくちゃなことをしかけておきながら、事態の展開の激しさに怖じ気づいて、ホイスパーの恋人である大柄な美女ダイナ・ブランドに泣きごとを言い、いっしょに酔いつぶれたり もすることで、「私」は幾分まっとうな人間であるところも見せるのだが、結局町の大掃除は達成されてしまう。
長い小説ではないのに、人の名前を覚えるのが意外と大変。しかもせっかく覚えてもすぐ死んでしまうし、割と重要な人物の死も電話一本の報告であっさりすま されてしまう。この戸惑うばかりのそっけなさが、すごい。(2003.4)

<追記>
★ねたばれしまくりです!(が、そういうのが気になる作品ではないと私は思います。)
確認したいことがあって、ひさしぶりに読んだのだが、かなりぶっとんでいる小説だと思った。
「私」ことコンティネンタル・オプがやってくる町、パーソンビル、通称ポイズンビル(毒の町)の状況は、込み入っている。
悪の組織は二つでなく、複数ある。ボスは、フィンランド野郎のピート(酒の密売人)、ルー・ヤード(金貸し)、ホイスパー/マックス・セイラー(賭博師)の3人だが、警察署長のヌーナンは、ピートとルー・ヤードと癒着している。さらに、途中から何の前触れもなくリノという男が登場して重要な役割を果たす。
パーソンビルは、鉱山町で、組合から運動員(クィント)が派遣されてきたことにより、鉱夫たちと会社側の間で紛争が起こった。鉱山主で町の創設者であるエリヒュー・ウィルソンは、これを鎮めるために無法者たちを雇った。紛争は収まったが、無法者たちは町に居座り、町を腐敗させていった。
オプは、町中の男を惑わせているような、危険な女ダイナ・ブランドからあるネタを仕入れる。1年前にヌーナンの弟ティムが何者かに殺されたが、ダイナは、ティムが死ぬ間際に犯人はマックスだというのを聞いた人物がいるというのだ。オプは証人に会い、ヌーナンにそのことを告げる。ヌーナンとホイスパーの対立が激しくなり、死人が増える。ウィルソン宅で「和平会議」が行われるが、オプは、その場でティムを殺したのは実はホイスパーではないと言ってヌーナンを追いこむ。ホイスパーは怒り立つ。この後、前半かなり頻繁に出ていたヌーナンがあっさり殺される。そして、出所したてのリノというルー・ヤードの手下が突如現れ、人を殺しまくる。
3人のボスのうち、名前がよく出るピートはやっとちょっと出たと思ったらすぐ殺され、ルー・ヤードに至っては一度も登場することなく死んでしまう。
オプの依頼人のドナルド・ウィルソン殺し、ティム殺し、そして、ダイナ・ブランド殺しと犯人探しが3つ続くが、どれも大した謎ときではない。どの事件においてもホイスパーが犯人とされ、結局彼ではないということが判明する。
オプは、ダイナ・ブランド殺しの容疑をかけられ、サンフランシスコから応援にやってきた二人の仲間の探偵のうちの一人ディックに疑われたりもするが、もう一人のミッキーは茫洋として頓着なしである。
ミステリとして、小説として、これで成り立つのかと思うような部分があって、つまらないという人がいても不思議はないと思われる。しかし、私には、この強烈にぶっきらぼうなところがたまらなく、ハメットの作品の中ではだんとつに好きだ。(2013.4)


新任保安官 Corkscrew 
ダシール・ハメット著(1925年)
稲葉明雄訳 創元推理文庫「ハメット短編全集1 フェアウェルの殺人」所収
「血の収穫」の原型となったと言われる中編小説。
時代は現代で車も走っているが、国境の無法の町が舞台で、男たちはいまだに45口径を腰に下げて歩き、食堂の親父は払いの悪い客には散弾銃を突きつけて集金するといった塩梅なので、ほぼ西部劇と言っていい。
主人公は、コンティネンタル・オプである。
町の名前は、原題にもなっているコークスクリュー。原題が町の名前であるところも、西部劇らしい。開発会社が農業用地として開発計画を進めているが、町に無法者がいるため、善良な農業就業希望者が怖がって寄りつかない。そこで、探偵社に彼らを追い払うよう依頼してきたのである。
「私」ことコンティネンタル・オプは、町へ来る途中、郡の役場に立ち寄って、保安官補(deputy sheriff)に任命してもらう。
ミルク・リバーという好感度の高い若者が登場。オプのよき助手となるが、ちょっとした誤解から撃ち合いになったり、東部から来た美女と恋に落ちたりもする。西部劇らしいキャラで、個人的な好みからいうと、ジェフリー・ハンターあたりにやらせたい役回りである。
オプが、銃の出す音にかけては、自分の持つ32口径は、45口径に比べたら蚊が鳴くようなものだと語るのが可笑しい。(2013.4)

●「小説家・逢坂剛」に触発されて、ハメットの「マルタの鷹」と「ガラスの鍵」を読み返す(2012.6)
○「小説家・逢坂剛」
逢坂剛著(2012年) 東京堂出版
逢坂剛氏のエッセイ集「小説家・逢坂剛」を読んだ。
最後の「硝煙の中の男たち」(かっこいい見出しだ!)という西部劇についての章を目当てに購入した。俳優ごとに西部劇映画について語ってくれているのは今時たいへんありがたく、興味深く読んだ。(ただし、ジョン・フォード監督とジョン・ウェインが組んだ西部劇について「捜索者」以外語るべきものがないという意見にはちょっと異議あり。)
西部劇についての章はもちろんおもしろかったのだが、著者が長年親しんでいる神田界隈の話や、西部旅行の話も楽しかった。
前の方のハードボイルド小説について言及している部分にも引きつけられた。ハドリー・チェイスなどの作家を上げているが、かきたてられたのは、なんといってもダシール・ハメットへの思いである。


○ハメットの小説
ハメットの小説は、学生時代にだいぶ読んだ。
血の収獲」とその原型の「連邦保安官」が好きで、この二つは、何回も読んだ。
「ガラスの鍵」は、かなりおもしろかったのだが、ラストの不可解さでわけがわからなくなり、いつか読みなおそうと思いつつ、そのまま放置しておいた小説である。「小説家・逢坂剛」には、この小説についての文章が全部で3つ載っている。
それと「マルタの鷹」。これも一度読んで、サム・スペードってあんまり好きじゃないなと思い、でも、世間ではハメットと言えばこれなので、もう一度くらい読んでみようと思いつつ、やはり放置したままだった。
で、おそらくこれはまたとない機会ではないか、というか、この機を逃したら一生読まずに死んでしまうかもしれないと思い、ハメットの主要長編2つを読み直すことにした。
改めて読んでみると、謎解きよりは、駆け引きの小説であり、書かれていないことをいかにして読み取るかを求められている小説だと思った。
作者の中に組み立てられた話がある。が、作者はそれを、登場人物の心情については一切語らない、ハードボイルドという独特の文体で表現する。読み手は、登場人物たちの行動、しぐさ、会話から彼らの考えや思いを推し量らなければならない。作品として書かれたものは、暗号のようなものだ。通常の暗号であれば暗号化する過程を逆にたどりさえすれば元の文に戻れるのだが、この場合、元の文は作者の頭の中にしかなく、解読のコード表もない。読み手が勝手にコードを作って解読するしかないのであるが、その分、解読者の数だけ答えがあるともいえるのではないだろうか。
「マルタの鷹」と「ガラスの鍵」、この2つの作品において私がもっとも気になっているのは、事件の顛末ではなく、ヒーローとその友あるいは相棒というべき男との関係である。サム・スペードは殺された相棒のアーチャーをどう思っていたのか。ネド・ボーモンとそのボスというべき男ポールとはどういう関係だったのか。ということを気に掛けながら、再読した。
というところで、「『マルタの鷹』講義」というとんでもない本が出てしまった。東大文学部の先生による研究本で、逢坂氏お勧めの1冊である。読むのが大変そうだが、乗りかかった船ということでこれにも挑戦してみた。

○「マルタの鷹」 THE MALTESE FALCON
ダシール・ハメット著(1930年)
村上啓夫訳 創元推理文庫(1961年)
小鷹信光訳 ハヤカワ文庫(1988年)
サンフランシスコのストックトン通りには、「マイルズ・アーチャーは、ここで××によって殺された。」と記されている小さなプレートがかかっているという話をだいぶ前に聞いたことがあるが、このマニアックな観光案内版は、今でもまだ見ることができるのだろうか。
マイルズ・アーチャーは、「マルタの鷹」の主人公、私立探偵サム・スペードの相棒である。彼は、登場してすぐ、ある男を尾行中に、ストックトン通りからちょっと脇に入った路地裏で、何者かによって射殺されてしまう。これが事件の発端となる。
16世紀にエルサレムのセント・ジョン・ホスピタル騎士団が、神聖ローマ帝国皇帝カール5世に献上するために作らせたという黄金と宝石でつくられたお宝「マルタの鷹」の像を巡って、美女とゲイのレヴァント人と太っちょの金持ちと拳銃使いの若者と、そして孤高の探偵サム・スペードが虚々実々の駆け引きを繰り広げる。話の舞台は、ほとんどが室内である。事務所かホテルの一室で、人々が話をする。あるいは、銃をつきつけたり、殴り合いをしたりする。この駆け引きを詳細に分析した「『マルタの鷹』講義」を読むと、おもしろさは格段に上昇する。
サム・スペードは、顔が複数のV字型でできていて、逆三角形の体形であるということと、性格的にはちょっといやな奴だったと記憶する。
読み返してみて思ったのは、とにかく、よく人につっかかる男だということだ。警官たちとのやりとりなどでは、かなり執拗に嫌みを言う。スペードを疑い、横柄な態度をとるダンディ警部補はいやな奴だが、温厚で冷静なトム・ポールハウス部長刑事に対しても、スペードの対応は意地悪だ。
そして、「子どもみたいだ」と評される。トム・ポールハウス部長刑事は、スペイドに「いいかげんできみも、大人になったらどうだ?」(村上訳)「あいかわらずガキみたいだな。」(小鷹訳)(原文は ”Ain’t you ever going to grow up?”)と言うし、秘書のエフィも、「あなたのいうこと、まるで小学生みたいだわ。」(村上訳)「あなたってほんとに手に負えないガキそっくりよ」(小鷹訳)(原文 ”You certainly act like a God-damned schoolboy”)と言い放つ(” a God-damned schoolboy”は、その直前にスペードが使った言葉。)。
自分でも、「こどもみたいだろ、ふふ。」(村上訳)「大人げなかったか。」(小鷹訳)(原文 ”Childish,huh?”)と、ちょっと照れながらブリジット・オショーネシーに言ったりもする。
私立探偵が一人で警官や百戦錬磨の悪漢たちとやりあうためには、弱みを見せずに強気でばんばんいかなきゃならんのだろうが、クールな反面、血の気の多い奴という感じもする。そして、「『マルタの鷹』講義」によれば、実はめちゃくちゃ「女に弱い」男なのだ。
第3章のタイトルにもなっているが、3人の女が出てくる。可憐で明るい探偵事務所の秘書エフィー・ピライン、妖艶なアーチャーの妻アイヴァ、依頼人である謎の美女ブリジット・オショーネシーである。
この3人3様がおもしろかったが、「『マルタの鷹』講義」では、彼女らに対し、それぞれ、「母」「牝犬」「ファム・ファタール(運命の女)」という位置づけをしている。
昔の印象では、ブリジットがどうにもうっとうしく、ラストの彼女とスペードとのもちゃもちゃしたやりとりになんともいらいらさせられたように思うのだが、今読むと、印象が違う。というか、このもちゃもちゃしたやりとりこそ、この作品の最大の見せ場と言ってもいいのだった。
エフィが、アイヴァに対しては嫌悪感をあらわにしているのに、ブリジットに対しては、迷いもなく好感を抱いているというのもおもしろい。ブリジットは、色っぽい悪女というだけでなく、そこはかとなくエレガントな雰囲気を持っている女性なんだろうと想像する。彼女の出自については何も書いてないが、育ちはいいのかもしれない。
「『マルタの鷹』講義」では、ブリジットとスペードの関係について多くの頁を裂いて解説している。ファム・ファタール、ファム・ファタールと連発していて、ちょっと幻想を抱きすぎではという気がしないでもないが、とにかく、他の二人の女性に比べると別格の扱いである。(エフィについては「母」としてそれなりの地位を与えているが、アイヴァはだいぶ格が落ちる。)
「マルタの鷹」は、小説でも映画でも、世間では、「殺された相棒のために、愛する女を警察に引き渡す」、色恋よりも男の友情を取った男というような感じで言われていたと思う。
が、初めて小説を読んだときには、どうもそんな感じがしなかったし、今回読んでも、そうした印象はあまり変わらない。「『マルタの鷹』講義」を読めば、その言いようがいかに浅いものであるかわかるが、「男の友情」があったのかなかったのか曖昧なのは、殺されたアーチャーの扱いがあまりにもそっけないことにも原因があると思われる。
スペードが本当はアーチャーのことをどう思っているのか。アーチャーが生きて登場するのは、冒頭の事務所のシーンだけである。依頼人の美女ブリジットをなめまわすように眺めて、彼女の依頼を引き受ける。陽気で女好きで下卑たやつというふうに描かれている。スペードは、アーチャーに合わせた気さくそうな受け答えをするが、その死後は、彼のことを決してよく言わない。そして、アーチャーの妻アイヴァと浮気していることが明かされる。すっかり忘れていたのだが、この事実を改めて知って、私は混乱した。
スペードは、アーチャーの探偵としての腕は評価していたが、彼のことが好きだったとかいい奴だったとか、いいことは一言も言っていない。
むしろ、アイヴァと浮気した言い訳に「マイルズが好きじゃなかったからね」(村上訳)「好きじゃなかったんだ、マイルズのやつが」(小鷹訳)(”I didn’t like Miles.”)と言っている。これに対し、エフィは「それは嘘よ」(村上訳)「そんなの口実よ」(小鷹訳)(”That’s a lie.”)と否定している。が、結局、エフィ自身は、アーチャーについてなんの評価も下していず、それがまたちょっと気になるところでもある。
スペードは、さらに、ブリジットに対してアーチャーのことを「いやなやつだった」(村上訳)「屑野郎だった」(小鷹訳)(”Miles was a son of a bitch.”)とまで言い放っていている。
アーチャーの死を電話で聞いた直後、スペードは、たばこを巻く。紙煙草を巻く描写がえんえんと続く。これは、スペードが受けたショックの大きさを表しているのではないか。事務所では、主のいなくなったアーチャーの机をじっとながめていたという記述がある。
また、ブリジットとの最後の長いシーンにおいて、「マイルズはばかだったが、それほどばかじゃなかった」と言った同じような物言いを、3回繰り返している。
当初は、相棒の妻と浮気しておいて、相棒のことをくそみそに言うのはいかがなものかと思ったのだが、前述したスペードの突っ張り具合やブリジットの前でのかっこうつけということを考えると、また違ったことが見えてくるように思う。彼は相棒の死を悲しんでいることを知られたくなかったのではないか。
「『マルタの鷹』講義」を読んだ後、改めて、考えてみた。
ポールハウス部長刑事が、アーチャーに関して「マイルズにも欠点はあったが、いいところもあった」と語る。これは、一見、実のあることは何も言っていないように思えるが、虚勢と真意、愛と憎悪、裏切りと信頼が複雑に混じりあった作風を考慮すると、深い意味を持つように思えてくる。スペードの、アーチャーに対する思いも、単に「いやな奴」というだけでなく、複雑な思いが絡み合っていたのではないかと思えてくるのだ。

○「『マルタの鷹』講義」
諏訪部浩一著(2012年) 研究社
東大文学部准教授が「マルタの鷹」を精読し、一章ごとに詳しい分析を行っている研究本。
逢坂剛さんお勧めの一冊。読みやすくはあるが、これほど中味の濃い研究本を「マルタの鷹」を読んだ記憶だけを頼りに電車の中や布団の中でざざざっと読み進むのはなんだかもったいなく、ちゃんと読み解くために、「マルタの鷹」の訳本を1章読んで、本書を読み、場合によっては原本を見て確認する、という手順を踏んだので、読むのに、だいぶ力と時間が要った。が、せっかくの「マルタの鷹」を味わうチャンスと思い、頑張ってみた。
ときどき文学研究専門用語が出てきて、何言ってんだかよくわからないところもあったが、だいたいにおいて大変興味深く、おもしろく読んだ。
スペードという男は、味方にしたら頼りになるんだろうが、実際に隣にいたら面倒くさい奴なんだろうなという思いはより強くなった。
スペードが唐突に語り出すフリッツクラフトの挿話については、これまでもいろいろ論議されていること、この挿話がハメットが探偵をしていたときの話であることなども興味深かった。
探偵小説について、探偵が次に打つ手に困ったときはとりあえず「かきまわす」というのもおもしろかった。古典的な推理小説と違って、ハードボイルドでは、探偵が事件に干渉する。本来観察者であるべきはずの探偵が自ら動くことで事件に影響を与えるというところは、なんだか量子論的だと思った。
しかし、なによりも冒険小説<恋愛小説<探偵小説という不等式が、すごいと思った。

○「ガラスの鍵」
ガラスの鍵 THE GLASS KEY
ダシール・ハメット著(1931年)
大久保康雄訳 東京創元社(世界推理小説全集35)(1957年)
逢坂剛氏は、「小説家・逢坂剛」の中で3回この小説について書いているが、2回目と3回目にチャンドラーの言葉を引用している。それによると、「ガラスの鍵」は、「ある友だちに対する一人の男の献身の記録」だという。1995年に月刊文藝春秋に書かれた「ミステリ今昔物語」という文章では、逢坂氏はこれが「正しい読み方であったかどうか」といった疑問を呈しているが、2009年の「私をつくった本」という文章では同じ引用に対し、「さすがだ」と評価している。
「ガラスの鍵」の主人公は、賭博師のネド・ボーモン。地方都市の顔役であるポール・マドヴィッグのところの食客である。ポールに金で買われている臨時の子分のようなもののはずなのだが、二人の関係は対等の友人同士のように見える。この二人のやりとりはとても好きだ。
ある夜、ネドは、路上で男の他殺死体を発見する。それは、ポールが選挙の後押しをしている上院議員ヘンリーの息子テイラーだった。やがて、ポールが犯人であることをほのめかす怪文書が次々と関係者に送られる。ネドは、ポールの容疑を晴らそうとする。
初めて読んだのは、もう30年くらい前だ。読んでいる間はネドとポールの友情にいたく感じ入ったにも関わらず、ネドがポールが愛している女性を連れて町を出て行くラストで唖然とした記憶がある。殺人容疑は晴れたものの、全てを失ってぼろぼろになったポールに追い打ちをかけるような仕打ちをネドはするのである。ポールは悄然として去り、ネドは、彼が去ったドアをじっと見ていた。というところで小説は終わる。
このラストさえなければ、チャンドラーのいうことは、うんうんとうなづける。
が、ネドは、それまでにも、ポールを裏切るような行動をしている。町を出て行くことを決めたのは、だいぶ早く、ポールにテイラー殺しの容疑がかかるさなかに、ニューヨーク行きの切符を買って、荷造りをしかけている。
ポールが最大の危機に陥っているときに、ネドは、なぜ敢えて町を出ようと思ったのか。
ネドは、借金を踏み倒して姿をくらました競馬賭博の元締めバーニーを追ってニューヨークに行くが、そこで立ち寄った酒場のバーテンは、ネドに対し「あなたから金はとれない」と歓迎してただで酒をふるまう。が、ポールと対立するギャングのボス、オマリによれば、彼はニューヨークからこの町にやって来たのではない。さらに、ネドが言うには、この町にきて15ヶ月ということである。これらから推測できることは、ネドはかつてニューヨークにいたが、なにかあってそこを出るはめになった。何をやったか知らないが、ある酒場のバーテンからは感謝されている。ネドは、ほとぼりを冷ますために地方に逃れた。地方都市を転々として、15カ月前にこの町に流れ着き、ポールの食客となった。といったことである。
つまり、彼は、元は都会のギャンブラーであり、ひとところに落ち着くことのない流れ者である。
たまたまこの町に来たら、ポールという男がいて、ひどくうまがあったため、長く居座ることになった。が、本来都会の男であったネドは、田舎のくらしに飽きてきて都会が恋しくなった、この町に長くいすぎた、そろそろ潮時だ、と思ったのではないか。
そして、どうやら、ネドはポールを好きなのだが、合わないと思うところもあるようだ。オロリに対する逃げ道を与えない追い込み方を非難しているし、何より最近の彼の動きが気に入らない。町の顔役として裏の世界を仕切っていればいいものを、どうも表舞台に出たがっている。ヘンリー議員始め、上流階級の連中と付き合いたがっている。ネドは、ポールのことが好きだが、そういう傾向は好まない。
こうした関係で思い出す物語がある。司馬遼太郎の「燃えよ剣」における近藤勇と土方歳三の関係である。新撰組隊長の近藤は、京都で守護職につくうちに、政治に興味を抱き、大名と付き合い始めるが、土方はそれが気に入らない。彼は、新撰組が強くなることしか考えない。近藤が、上流ぶって化粧をして写真を撮っているのをひどく冷やかに見ていたりする。が、何かの折に近藤が豪放な性格の一端を垣間見せると、この男のこういうところはやはりいい、と会心の笑みをうかべる。
これと似た関係が、ポールとネドにあるのではないか。上流階級に混ぜてもらおうと躍起になるポールに嫌気がさしつつも、ポールの男気にネドは魅かれている。
真犯人が誰か、ジャネットに説明する際に、ネドは、「ポールは殺ってない。殺ったんだったら、まずおれに言うはずだ。」という。最初読んだときもこの言葉にぐっと来た。二人の深い信頼関係を表していると思った。
で、ネドは、潮時だから町を去ろうと思うが、最後にポールのために一肌脱ごうと決意した。
ネドは、当初、自分がバーニーに踏み倒された借金を取り戻すために、テイラー殺しを利用する。証拠をでっち上げ、殺人容疑をかぶせるとバーニーを脅して、彼から賭博の儲けを取り戻す。が、そのことがポールにとって不利に働く。ポールの子分ネドは、ポールの疑いをそらすためにバーニーを犯人に仕立て上げようとしたのではないかという内容の怪文書が届く。それもあって、ネドは、何としてでもテイラー殺害犯を見つけ出し、ポールの疑いを晴らそうとしたのではないか。
ネドを引き抜こうとするオロリの拠を訪れ、そこで凄惨なリンチに合い、また、ポールの記事をすっぱ抜いた記者マシューズの家にも単身で乗り込む。チャンドラーが言うように、見ていて切ないほどの献身ぶりを彼は見せる。
が、「『マルタの鷹』講義」の諏訪部浩一先生が言うところの「かき回し」であるネドの行為は、だいぶ行き当たりばったりなので、行動の結果がどう転ぶか予測不可能なことが多々ある。そのせいか何を意図していたのか、よくわからないように映る。
最後にジャネットを連れていくことについて、ポールへの裏切りだという見方がある。ポールは、ヘンリーの娘ジャネット(おそらくすごく美人なのだろう)にぞっこんである。ネドは、そのジャネットを連れて町を去るのだから、裏切りだということだ。が、連れて行ってと言い出したのはジャネットだし、彼女は、終始一貫してポールを嫌い、ネドに好意を示している。
ポールは、40代の田舎のギャングのボス、金髪で青い眼、がっしりとした体つきで、その筋の男たちには好かれるかもしれないが、あまりおしゃれではなく、女性の扱いも苦手そうである。一方、ネドは、30代、黒髪に黒い眼、痩せていて、都会的で、おしゃれで、女性の扱いに慣れている。ネドは、ポールに、ジャネットへのプレゼントについて相談されたり、またジャケットとくつの組み合わせなどファッションについて注意したりしている。
私だったら、ポールもかなり魅力的と思うが、ジャネットがポールよりネドに魅かれるのは致し方ないのではないか。
ネドがジャネットをどう思っているのかは、はっきり示されない。ネドはジャネットを好きでないとはひと言も言っていない。「金髪のモンスター」などとにやけながら言うところを見ると、そこそこ気があったのかもしれない。
とにかく、ジャネットに関して言えば、ポールを「裏切った」というのは、彼女の気持ちを無視した物言いだ。怪文書を流すなど、心根がいい女性とは思えないところもあるが、彼女は、ポールが兄のテイラーを殺した犯人であってもなくてもポールの事は好きになれないと断言している。完全にポールの片思いなのであって、それをむりやりくっつけようとしても酷というものだ。
ポールの容疑を果たしたことでネドは目的を遂げた。無口で誤解をいとわない彼は、ポールがこんなことで落ちぶれてしまう男ではないことを知っていて、去った。そんなふうに思った。
「『マルタの鷹』講義」の諏訪部先生なら、これらネドの言動に対し、目からうろこの分析をしてくれるのではないかと思う。読むの大変そうだが「『ガラスの鍵』講義」もあったらうれしい。


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