みちのわくわくページ

○ 本 小説一般

<著者姓あいうえお順>
下町ロケット、ロスジェネの逆襲(池井戸潤)、 博士の愛した数式(小川洋子)  
津軽(太宰治)、 二十四の瞳(壺井栄)、  永遠の0(ゼロ)(百田尚樹)、  わが国女三割安(藤原審爾)、 火花(又吉直樹)
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹)、
共生虫、55歳からのハローライフ、69sixty nine(村上龍)、 
コンビニ人間(村田沙耶香)、 海獣ダンス(山本甲士)
珈琲相場師(デイヴィッド・リス)

下町ロケット
池井戸潤著(2010年) 小学館
大田区にある中小企業が、会社の存亡をかけて、大企業とのせめぎ合いを繰り広げる痛快企業小説。
★以下ねたばれあります。
佃製作所は、自社工場でエンジンを開発製造している精密機械メーカーである。社長の佃は、元は宇宙科学開発機構の技術者だったが、彼の開発したエンジンを搭載したロケットの打ち上げが失敗したことから、引退して父の工場を引き継いでいた。
佃製作所は、大口の取引先から突然取引停止を宣告されたところへ、ナカシマ工業という競合相手の大手製造会社からいわれのない特許侵害の訴訟を起こされ、窮地に陥る。佃は、特許訴訟に詳しい弁護士神谷を代理人とし、ナカシマの謀略に立ち向かう。が、この話は前半で収束する。
訴訟の話においては特許侵害の具体的内容は示されず、問題は解決の方向へ。ここで神谷弁護士から、これまでの特許を見直した方がいいというアドバイスがあったことで次の展開へとつながるのだが、話は別の内容のものとなっていく。
佃製作所が特許を持つ水素エンジンのバルブシステムを巡って、大企業の帝国重工とのかけひきが展開されることになる。
帝国重工は莫大な開発資金を投入してロケット用の水素エンジンを開発するが、特許はすでに佃製作所が取得していた。
下町の中小企業に先を越されたことを知って愕然とした帝国重工側は、佃に対し、特許譲渡、最悪でも特許独占使用契約を要求する。
これに対し、社長の佃は、メーカーとしての意地をみせ(実は別れた妻に言われて思い立ったのだが)、部品供給契約を提案、それ以外の要求をつっぱねる。
営業部や経理部の社員たちは、普段から、せっかくの売上が自分達に還元されず、売れるあてのないロケットエンジンの開発に費やされていることを快く思っていなかった。資金繰りの厳しさが続く中、すぐに利益が得られる特許譲渡あるいは特許独占契約を退け、部品供給契約に固執する社長の対応は彼らの反感を呼び、佃と社員たちとの溝が深まっていく。
佃製作所内部の話と並行して、取引相手の財前部長を中心とする、帝国重工側の社員の確執や画策も描かれて、俄然おもしろくなる。
佃製作所では、研究員であったころの夢を捨て切れない佃が経営者として一徹なところを見せるが、他にも、営業部や経理部のやんちゃな若手社員が社長につっかかりつつも社員としてのプライドに目覚めたり、銀行から出向してきた気の弱そうな経理部長がここぞいうところで胸のすく発言をしたり、社員たちの魅力があちこちで爆発し、やがて彼らが団結して帝国重工に立ち向かって行く様子がさわやかに描かれる。
部品供給契約に当たって、帝国重工は、佃に対し必要以上に厳しい審査を課してくる。この審査への対応が、痛快この上ない。以後、物語は怒涛の勢いで一気に進む。まるで活劇を読んでいるようにわくわくどきどきした。
ということで大変おもしろく読んだのだが、佃製作所は、資本金3000万円、売上百億円弱、従業員200人、何十億もの金額を動かしている、中小といっても、それなりの規模の企業である。読む前に連想したような下町の工場(こうば)という雰囲気ではない。ロケットエンジンを巨額の予算を使って開発するのは、社長の佃の方針というか趣味みたいなものだが、それだけの体力と技術を持っていないとできないわけで、これくらいが規模的にちょうどいい塩梅ということなんだろうか。
また、訴訟にしても、帝国重工との駆け引きにおいても、専門的な技術に関する具体的な記述はほとんどない。理系の説明をされてもよく理解できないとは思うし、SF小説など読んでもそうした部分は飛ばして読みがちである。そう思えばそうした説明が潔く省かれている本作は、文系人間にとっては、おいしいところばかりで読みやすいはずなのだが、それはそれで空虚な感じがしないでもない。理解できないながらも、専門用語が多少とびかってくれると、なんとなく説得力があるというか。身勝手な読者ではある。(2011.6)


ロスジェネの逆襲
池井戸潤著(2012年) ダイヤモンド社
登場人物:
半沢直樹(東京セントラル証券営業企画部長。東京中央銀行の営業第二部次長から出向)
森山雅弘(同営業企画部調査役。半沢の部下。)
渡真利忍(東京中央銀行融資部。半沢の同期。情報通。)
中野渡謙(東京中央銀行頭取。)
三笠洋一郎(東京中央銀行副頭取。半沢を敵視。)
伊佐山・野崎(東京中央銀行証券営業部、電脳雑技集団アドバイザリー担当チーム)
平山(電脳雑伎集団社長。)
瀬名洋介(東京スパイラル社長。森山と中学時代の友人。)
郷田(フォックス社長。)
★ネタばれあり!
テレビドラマ化が話題となっている、銀行マン半沢直樹を主人公にしたシリーズの第3弾。
本作では、半沢は東京中央銀行子会社の証券会社に出向となっている(左遷とある)。肩書きは営業企画部長。(ドラマでは、半沢の父は中小企業の社長だったが、銀行に融資を断られたために経営が破たんし、自殺に追い込まれたという設定になっている。が、小説では自殺はしていなくて存命らしい。)
半沢が東京セントラル証券に出向して半年。
新興IT企業、電脳雑技集団社長の平沢から、ライバル会社東京スパイラルを買収したいという相談が持ち込まれ、東京セントラル証券は電脳とアドバイザリー契約をかわす。が、親会社である東京中央銀行証券営業部が割り込み、契約を取られてしまう。
電脳の敵対的買収の標的とされた東京スパイラルに対し、スパイラルのアドバイザーである大洋証券の広重らは、対抗策として新株発行を提案する。電脳が買い占めるのが困難になるだけの株を発行し、協力的な企業(ホワイトナイト)に新株を買い取ってもらうという作戦だ。広重らは、ホワイトナイトの候補として、PC及び周辺機器販売大手企業のフォックスを挙げる。
東京スパイラルの若き社長瀬名は、半沢の部下森山の中学高校時代の親友だった。瀬名の父は、バブルの時期に不動産業で儲けていたが、投資に失敗し借金を抱え込んで自殺した。瀬名は私立高校を辞めて引っ越してしまい、友人たちと連絡が途絶えていたのだった。
瀬名と森山は久しぶりに再会し、旧交を温める。が、森山は、瀬名から聞いたホワイトナイト計画に疑問を持つ。フォックスのメインバンクは東京中央銀行、しかもフォックスの経営はさほど順調ではないのだった。
東京中央銀行証券営業部による、大洋証券とフォックスを取り込んでの買収スキームの実態を知った半沢らは、東京スパイラルを救うべく、同社とアドバイザリー契約を結んで親会社に反旗を翻す。どう見ても勝ち目のなさそうな買収計画に対し、彼らは、逆買収という策に出る。
電脳雑技集団対東京スパイラルの攻防は、そのまま東京中央銀行証券営業部対東京セントラル証券の対決に直結、一方が仕掛ければ一方が逆襲に出る、逆転に次ぐ逆転の展開は、活劇さながらにはらはらどきどきの連続で、ページをめくる手が止まらない。
自らの世代の不運を嘆き世の中を諦観していた森山は、本社人事部の不穏な動きなど物ともせずその時その場での仕事に専念する半沢や、苦労を重ねて自らの努力で道を切り開いてきた親友瀬名の姿を見て、仕事への希望と情熱を見出していく。
森山と瀬名が、「ロスジェネ」世代に当たり、タイトルの文言は本文中にも出てくるが、内容は、むしろロスジェネとの逆襲である。(2013.7)

※ロスト・ジェネレーション(失われた世代)というと、私などはヘミングウェイやフィッツジェラルド?と思ってしまうのだが、今でいうロスジェネ世代とは、就職氷河期(1993年〜2005年)に学校を卒業し、社会人になった世代、1970年代半ばごろに生まれた世代のことを言う。本書の冒頭に人物相関図があって、単なるビジネス上の関係だけでなく「憎しみ」や「信頼」などとあるのがなかなかわかりやすくて愉快なのだが、半沢とその同期たちに「バ」(バブル世代の意)、森山と瀬名のところに「ロ」(ロスジェネ世代の意)とある。


博士の愛した数式
小川洋子著(2003年)
新潮社
シングルマザーの家政婦と10歳になるその息子、そして静かな隠居生活を送る数学の博士の物語。
博士は、1975年に事故に遭ってから、記憶が80分間しか持たなくなってしまった。
博士にとって、家政婦母子は会うたびに初対面。頭のてっぺんがルート記号のように平らなことから、自分が少年に「ルート」という呼び名をつけたこともその 都度知らされる。それでも、数学の話題と野球の話題(博士もルートもともに阪神ファン)で、三人は心を通わせていく。
静かでゆったりとした時間が流れる。
素数をこよなく愛する博士の話を聞いていると、苦手な数学がこの上なく美しいものを追求する学問のように思えてくる。(2005.3)


津軽
太宰治著(1944年)
青空文庫でスマホで初めて小説を最後まで読んだ。
以前読んだ印象では、そんなにわくわくはしないが、整った落ち着いた随想という感じだった。
作者の生まれ故郷である津軽訪問記で、前半は級友と会い、文学好きの地元の人も交えて酒を飲むということを場所を変えて何度か繰り返す様子が、後半は、幼少期に世話をしてもらった乳母のたけと一別以来の再会を果たすまでの様子が描かれる。前半のとりとめなく続く故郷への思いと地元の人々とのやりとりもなかなかいいのだが、たけとの再会がやはりじんわりとくる。
心情的に昔は作者側でしかなかったのが、今読むとたけ側にもなりうるせいもあるかもしれない。十代のころにずっと面倒を見てやっていた少年が大人になってわざわざ訪ねてきてくれたら、さぞかし胸を打つものがあったにちがいない。
久しぶりに太宰の長編を読んだ。やはり昔の印象通り、自分の言動をすぐぐじぐじ悔やむ情けなさを臆面もなくさらしているなと思いつつ(でもそれはこの人が身を削って小説を書いていることの顕れでもあると私は思っているが)、文章が巧みだと思うところがそこかしこにあった。なにより情景がすっと頭に入ってくる。田舎の駅での改札の一幕。両手に荷物を抱えた娘さんが切符を口にくわえてぐっと顔を突き出す。青年の駅員がその切符にハサミを入れる。その間、娘さんは目を閉じている。昔の日本はよかったなどという懐古趣味は特に持っていないが、ほんわかした気分になった。(2016.9)


二十四の瞳
壺井栄著(1952年)
角川文庫

小豆島へ行く機会を得たので、島を舞台としている有名な小説を読んでみた。
瀬戸内海沿岸の村の岬にある分校に通う12人の子どもたちと女性教師大石先生との長きに渡る心の交流を描く。同時に、当時の貧しい農山村における子どもたちの厳しい境遇や戦争により悲惨な状況に追いやられていく人々の悲しみや苦しみを訴えている。たんたんとした描写なのに、やさしく切なく、力強くもある。
足を負傷して岬の分校に通えなくなった大石先生に会うため、幼い子どもたちが一致団結して、岬から本村の先生宅まで、彼らにとっては遠い道のりを歩いてやってくるところがいい。旅のゴールの目印となった一本松の下でみんなで写真を撮る。この写真がみんなの宝物となる。
戦争を経て、大石先生と大人になった子どもたちの同窓会が開かれる。戦場で視力を失った磯吉が、懐かしい写真を指でたどり、一人ひとりの名を言っていく場面は、泣ける。位置がちょっとずれているというのがまた泣ける。そして、その後数行でぶつっと物語は終わるのだが、これがまたひどく潔いのだった。(2014.10)
映画:「二十四の瞳」(1954年)

永遠の0(ゼロ)
百田尚樹著(2006年)
講談社文庫
司法試験浪人の健太郎は、フリーライターである姉の慶子から太平洋戦争終戦60年記念企画の協力を頼まれる。2人が慕っている賢一郎は義理の祖父であり、彼らの実の祖父は終戦間際に特攻で戦死した宮部久作という海軍航空兵だった。慶子は宮部がどのような人物だったのか興味を持ち、彼の人となりや戦死に至るまでの足取りを調べようと思い立ったのだった。健太郎は、戦友会に連絡をとり、存命中の元兵士たちを訪ね、戦争の話を聞いて回る。
宮部のかつての戦友たちは、当時の戦況や軍隊生活や航空隊の実戦の様子とともに宮部の言動を思い出して語る。宮部は、戦時下の軍にあって、新妻と娘のもとに生きて帰りたい、死にたくないと公言していた。戦闘機乗りとしての腕は超一流だったが、果敢で無謀な攻撃を試みることはなく、仲間からは臆病者と呼ばれていた。その彼がなぜ特攻に志願したのか、という謎を追うことで物語は展開していく。
圧倒的に強烈な事実を目の当たりにすると、フィクションの魅力がすっかり色あせてしまうことがある。下手にドラマにするよりは、生の記録に直に接した方が迫力がある。それを敢えてフィクションにする意味はどこにあるのかと考えると、作者にとっては自分の思いをこめられるということ、そして読者にすれば格段に読みやすくなるということがあるのかなと思う。
26歳で亡くなった宮部は、2013年まで生きていれば94歳である。戦争を知る者はだいぶ少なくなってしまった。こんなことがあったということをこのような形で多くの人が知るのは意味があると思う。ラバウルやガダルカナルという地名は知っているし、そこで戦争があったことも知っているが、どのような戦況にあり、具体的にどんな戦いが繰り広げられていたかについてはあまりよく知らなかった。そうしたことを知ることができたのは、たいへんよかった。
が、事実とそうでない部分との区別は読む側が判断しないといけないと思う。小学生の国語の問題に、「事実を書いている文には○を、感じたことや思ったことを書いている文には△をつけましょう。」というのがあった。「遠足に行った」は○、「楽しかった」は△である。
本作には、「特攻隊はテロリストだ。」というジャーナリストが出てくる。極端な物言いをする嫌な奴として描かれるが、しかし、戦時中の記憶を語る老人たちも、途中から事実ではなく、自分が「感じた」ことを語っていることがある。それは作者の捉え方であることを、ちゃんと認識して読んだ方がいいと思う。(例えば、艦隊が引き返したのは事実、幹部が臆病だったからだというのは一つの捉え方であると思う。)
そして、老人たちが語る戦争の話と宮部という男にまつわる話が、私の中では、どうにもうまくかみ合わなかった。ドキュメントフィルムと再現ドラマが並んでいるように、ふたつが乖離して映ってしまう。凄腕の飛行機乗りなのに、家族を大事にし、特攻を否定する。今風すぎるのか。「僕たちの戦争」というタイムスリップ戦争小説があった。回天での特攻を余儀なくされる青年と現代のフリーターの青年が入れ替わってしまう話である。宮部が、平成の世からタイムスリップしていった青年なら、納得しただろうか。いや、それでもキャラが立ちすぎているような気がする。凄腕というのはかっこいいが、どうにも劇画的だ。健太郎の今の祖父である賢一郎が実は・・・という展開も、私としてはあまり乗れなかった。(2013.11)
映画化:「永遠の0」(2013年)

わが国女三割安
藤原審爾著(1970年)
徳間文庫(1982年)

森崎東監督の松竹映画、喜劇・女シリーズの原作となった小説。
アマゾンで、中古を見つけて読む。稀少本である。
「新宿芸能社」という出張ストリップ派遣業を営む竜子と金沢の夫婦と、そこに身を寄せる女たちの悲喜こもごもを描く。女たちの名をタイトルにした連作短編集の形を取っている。
このタイトルがなかなかのものでちょっと口に出しづらい。不遇な身の上の女たちをおもしろおかしくたくましく描いていて、楽しくはあるのだが、やはり、女の身からすると、男がいばっていて女の扱いが今よりひどかった時代ならではの小説だと思う。
<各章タイトル>
○美少女ぽち、○名器まめ子、○あおかん星子、○いただき初子、○またたび笠子、○さかまき万子、○ちゃりんこ浮子、○あれあれ幾代、○ぽち、結婚しなよ

<映画との関係>
金沢とうさんは、映画では森繁久弥が演じていて、小説よりもヒモっぽい存在で、20代のころに見た時はなんとも思わなかったのだが、ちょっと前に米倉斉加年追悼で、久しぶりに「喜劇 女売り出します」を見たら、これが実に味のあるおじさんに見えて大変よかった。(自分が歳を取ったというだけのことなのだろうが。)
他の作品を観たのはだいぶ前で記憶が定かでないのだが、「喜劇 女は男のふるさとヨ」が一番好きで内容も一番覚えている。ドサ回りストリッパーの笠子を倍賞美津子が好演、彼女に尽くす地味でうだつのあがらなさそうな男を河原崎長一郎が演じていた。
竜子が、糞尿をリヤカーに入れて運んできて地下にある暴力バーに流し入れるシーンや、ぽちがお金持ちの家に身売りのような形で嫁いで、嫁ぎ先を訪れ不快な思いで去る竜子たちを追ってくるシーンや、緑摩子の星子が片目だけ二重に整形手術した目のアップから始まって踊るところや、出所したばかりの藤竜也がえらそうに「インターナショナル」を歌って肩をいからせて歩き出す後を安田道代の好子がいそいそとついていく場面も思い出した。
検索して、映画では誰が誰の役を演ったのか確認した。
・美少女ぽち:久万里由香 「喜劇 女生きてます」(1971)
・まめ子(好子):安田道代 「喜劇 女生きてます」(1971)
・星子:緑魔子 「喜劇 女は男のふるさとヨ」(1971)
・初子:川崎あかね「喜劇 女生きてます 盛り場渡り鳥」(1972)
・笠子:倍賞美津子 「喜劇 女は男のふるさとヨ」(1971)
・万子:?
・浮子:夏純子「喜劇 女売り出します」(1972)
・幾代:吉田日出子 「喜劇 女生きてます」(1971)
・竜子:左幸子「喜劇 女生きてます」(1971)、中村メイコ「喜劇 女は男のふるさとヨ」(1971)・ 「喜劇 女生きてます 盛り場渡り鳥」(1972)、市原悦子「喜劇 女売り出します」(1972)
・金沢とうさん:森繁久弥
(2016.3)



火花
又吉直樹著(2015年) 文芸春秋
話題の小説。20代前半の娘が大学の図書館で借りてきて読んでから回してくれたので読む。
東京で暮らす若手お笑い芸人徳永と4年先輩の神谷との10年間に渡る交流を描く。
徳永は、中学時代からの友人山下と「スパークス」というコンビを、神谷は大林という相方と「あほんだら」というコンビを組んでいるが、双方とも相方についての言及は最小限に留め、ずうっと徳永と神谷の話である。
冒頭の方の文についてネットでなんやかや言われているようだが、些末なことはおいておいて、読み終えた印象を言うと、なんだかずっと居心地がよくなかった、というか、読み心地がよくなかった。
たとえば、神谷と徳永の日常会話においても、ボケとツッコミの応酬、お笑い芸人は普段からこんなやりとりをしているのかということが示されて興味深いのだが、なぜか、全公開されているSNSの個人的なやりとりを見せられている感じというか、勝手にのぞけるのだが、こっちには向いていない、読み手の方に開放されていないように感じられ、疎外感を覚えてしまうのだ。
神谷先輩は、最初から破滅のフラグが立っているようだし、徳永は、私がテレビで見て知っている著者の又吉氏のイメージそのままである。ネガティブであまり社交的でなく、でも、自然体である。
ストレートで破滅的なものにあこがれる思いを神谷に託しているようにも思えるのだが、神谷の魅力も徳永のよさもあまり伝わってこない。これまた内に向いているのだ。
この感覚がわかる人にわかってもらって読んでもらえればいいと言われている感じ。センスが合わないので、ずっと違和感がある。娘は全然そんなふうには感じなかったようなので、若い人にはなんの抵抗もないのかもしれないと思うと、歳のせいかと思えてきて、ちょっと切ない。
吉祥寺から上石神井まで何度も歩く二人、井の頭公園で缶コーヒーを飲みながら話す二人など、金のない二人が徒歩で移動し、外で飲食するのはよかった。
売れないで借金ばかりが嵩み、どんどん追い詰められていく神谷が、徳永の銀髪に黒の衣装をまねしたり、失踪したあげくに、肉体改造して再登場する展開は、身につまされるなどという次元を超えて、ひどく陰惨である。風呂から裸で飛び出してくるラストの神谷の姿に、究極の可笑しさを感じられればいいのだろうが、どうか。
熱海の花火に始まって、10年後の熱海の花火で終わるのがよかった。(2016.1)


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上春樹著(2013年) 文藝春秋
36歳の多崎つくるは、東京の鉄道会社の施設部建築課に勤め、駅を作ったり改造したりする仕事をしている。あまり他人と関わらず孤独な生活をしてきた彼だが、旅行会社でコーディネーターをしている2つ年上の木元沙羅とつきあい始める。沙羅は、つくるの中にわだかまるものの存在に気付き、決着をつけるよう、アドバイスする。
つくるは、名古屋で生まれ育ち、十代後半を親密な男女4人の友人たちと過ごした。赤松慶、青梅悦夫(よしお)、白根柚木、黒埜恵理で、彼らはすべて名前に色を表す文字が入っていたため、仲間内では、アカ、アオ、シロ、クロと呼ばれていたが、色のないつくるだけは、そのまま「つくる」と呼ばれていた。高校卒業後、つくるだけが東京の大学に進学し、他の4人は地元に残るが、帰郷の際はそれまでと同様彼らと会っていた。ところが、大学2年の夏、つくるは、突然、彼らから絶交を言い渡される。理由も明かされないまま、仲間から切り捨てられた彼は、それから半年間、死ぬことだけを考えて過ごし、容貌がすっかり変わってしまったのだった。(と言っても、醜くなったのではなく、どうもちょっとぷくぷくしていた男の子が鋭角な感じのイケメンになったようだ。)
その後、なんとか事実を受入れ、東京で暮らしてきたつくるだが、沙羅のアドバイスに従い、かれらが突然自分を切り捨てた理由を知るため、かつての友人たちを訪ねる。タイトルの「巡礼」とは、その旅のことを指すようである。
以前、直木賞と芥川賞の違いは何かという問いに対し、犯人が出てくるのが直木賞、犯人が出てこないのが芥川賞、という答え方があると聞いたことがある(つまりは、大衆娯楽小説といわゆる文学作品との違いという意味です)。普段は犯人が出てくる小説ばかり読んでいるのだが、図書館にいったら返却されたばかりの本の中にこれがあって、たまにはこうゆうのも読んでみようかと思った。これはまさに犯人が出てこない小説で、謎はあやふやなまま放置されるのだろうと思った。
提示される謎には、次のようなものがある。
突然、つくるが仲間たちに切り捨てられたのはなぜか。
シロがつくるにレイプされたと嘘をついたのはなぜか。
シロをレイプしたのはだれか。
灰田はなぜ急に消えたか。
シロを殺したのは誰か。
沙羅がいっしょにいた男は誰か。

なぜつくるは捨てられたのか、色は何を意味するのかとか、読んでいる途中、どうしても考えてしまう。つくる以外の4人は、頭脳明晰、スポーツマン、線の細い美人、コメディエンヌと、文字通りカラーがはっきりしすぎている人たちで、つくるだけが普通である。が、たいがいの人間はそんなようなものだ。他の4人は、つくるが造り出した別の人格、実は五重人格のつくるが、他の4人の人格と訣別したということの抽象表現なのかとか、どうせ答えはでないのだろうからと勝手に思いめぐらしたりした。
ところが、一番最初の謎だけ、答えがあっさり明かされる。再会したアオが言うには、シロが、「つくるにレイプされた。」と泣いてみんなに訴えたのだそうだ。これには戸惑った。
男2人がつくるの言い分を全く聞かないのはおかしいとか、クロの言い分はいくらなんでも一方的だとか、そんなふうに思うのもそうなのだが、それよりも扇情的で俗っぽい回答が、小説全体の雰囲気とかみ合わないと感じた。いや、でも、こういう要素もあってのベストセラーなのかとか、結局は精神を病む若い美女に振り回されるという古典的な展開なのかとか、そういえばつくると深く関わる人間の中で沙羅だけ名前に色がないなとか、さらにいろいろ思いめぐらしたのだった。

村上春樹を読むのは、大学時代に「風の歌を聞け」を読んで以来である。しかし、印象はほとんど変わらなかった。おしゃれでインテリで、セックスも適度に絡むけど、清潔感にあふれていて、物悲しい。
例えば、沙羅とつくるの会話はこんな感じだ。

「それ(※つくるら5人の仲良しグループのこと)が存在し、存続すること自体がひとつの目的だった」
「たぶん」
 沙羅は目を硬く細めて言った。「宇宙と同じように」
「宇宙のことはよく知らない」とつくるは言った。「でもそのときの僕らには、それがすごく大事なことに思えたんだ。僕らの間に生じた特別なケミストリーを大事に護っていくこと。風の中でマッチの火を消さないみたいに」
「ケミストリー?」
「そこにたまたま生まれた場の力。二度と再現することはないもの」
「ビッグバンみたいに?」
「ビッグバンのこともよく知らない」とつくるは言った。
 沙羅はモヒートを一口すすり、ミントの葉のかたちをいくつかの角度から点検した。そして言った。

○○ワールドという言い方が私はあまり好きではないが、これを村上ワールドと呼びたくなる気持ちはわかる。私からすると、ほとんどSFのような恋人同士の会話だが、そう思って読めば、ふだんと違う世界を楽しめるのだった。(2014.12)


55歳からのハローライフ
村上龍著(2012年) 幻冬舎
様々な環境にある50代後半から60歳くらいの年代の男女が、家族や友人との関わりを中心に、これまでの人生とこれからの人生に思いを巡らす姿を描いた中編集。
登場人物は、女性より男性に対しての方がずっと感情移入しやすかった。二話目がだんとつによかった。
それぞれの物語になにかしらの飲み物が出てくる。(2013.8)
★結婚相談所
58歳の中米志津子は、4年前に夫と離婚し、派遣でスーパーなどの試食販売の仕事をして生活している。経済的な不安もあり、婚活を始める。結婚相談所で紹介され何人かの男性に会うが、どうもぴんとこない。ある日、ホテルのレストランで失恋したての若者と出会う。
志津子は、紅茶のアールグレイを愛飲している。
★空を飛ぶ夢をもう一度
タイトルの軟弱さにだまされてはだめだ。切実で誠実な思いにあふれた佳作である。
埼玉県新座市に住む還暦間際の因藤茂雄は、6年前に長年勤めた小さな出版会社をリストラされた。妻はスーパーでレジのパートを始めるが、因藤は再就職先がみつからず、人材派遣会社に登録して工事現場の誘導員などの仕事をしている。大学生の一人息子を抱え、生活はかつかつだ。
ある日、仕事先の工事現場で自分をじっと見つめる男がいることに気づく。黒いニット帽をかぶり、黒い外套をまとったその男は、「笑ゥせぇるすまん」に似ていた。やがて、男は因藤に声をかけてきて、佐賀県鳥栖市の中学校で同級だった友人の福田貞夫だと名乗る。30年以上経って再会した2人の男。福田は、因藤よりもさらにずっと辛く厳しい状況にあった。
再会からしばらく後、腰痛に見舞われ仕事を休んでいた因藤は、福田が山谷の宿で病気で死に掛けていることを知る。因藤は、福田を、絶縁中だという母親が住む家へ連れて行く決心をする。
山谷から川崎市宮前区までの困難な旅が始まる。山谷からタクシーで東京駅へ。東京駅から高速バスで東名向ヶ丘へ。東名向ヶ丘から路線バスで、福田の母が住む宮前平へという道程だが、これだけの距離が二人にとっては気が遠くなるほど遠い。福田は、自力で立ち上がる事もできないくらい弱っている病気のホームレス、垂れ流し状態で異臭を放っている。因藤はだいぶ回復したとはいえ腰痛を抱えているため、無理な姿勢はとれない。家を出るときに妻が3万円もたせてくれたが、出費はできるだけ避けたい。因藤は福田の体を支え、どうにかタクシーを拾うが、福田は車内で嘔吐する。東京駅に着くと、タクシーを降りた場所からバス乗り場までがまた遠い。高速バスでは、福田が元からの異臭のうえに失禁してしまい、乗客に嫌がられまくる。
汗とか糞尿とか臭いとかやたら出てきて顔をしかめたくなるが、生体が当然発せざるを得ないそういったものに対し、私たちはもうちょっと寛容であってもいいんじゃないかという気にさせられる。
記憶の底から徐々に蘇える中学時代の友人との思い出。旧知をなんとかして死ぬ前に家族に会わせてやろうともがく因藤と、因藤の親切にひたすら感謝する福田。2人のおじさんの友情に胸が熱くなった。
因藤は、中学生のころから天然水を入れた水筒を持ち歩いている。福田が、工事現場でみかけた男を因藤と確信したのも、因藤が肩から提げていた水筒が決め手となったのだった。
★キャンピングカー
大手家具メーカーのバリバリの営業マンだった富裕太郎は、会社の早期退職に応じ、58歳で定年を迎えた。
彼にはある計画があった。退職金でキャンピングカーを購入して、妻と共に全国を旅行するというものだ。だが、彼が思いもよらなかったことに、妻は計画に乗り気でなく、あっさりと夢は破れてしまう。
富裕は、娘の勧めで再就職を試みるが、会社時代の力関係が身にしみついている富裕は、就職口を依頼するかつての取引先に対しても、就職相談所のスタッフに対しても上から目線で接してしまい、どうにもうまくいかず、中高年の再就職がいかに難しいものであるかを思い知らされることになる。
徐々に精神に異常をきたし始めた彼は、心療内科を訪れ、若い真面目そうな医師に、夫婦や親子でもその人固有の“自分の時間”があり、他の人間は勝手にいじれない、そのことに気づいたはいいが、それを受け入れるには時間がかかるのだと言われるのであった。相手の気持ちなどお構いなしに、自分で勝手になんでも決めようとする人って確かにいるよねと思った。
富裕が自宅二階の広めのベランダで白木のデッキチェアに座って飲むのは自分で入れたコーヒー。
★ペットロス
高巻淑子(59歳くらいか)は、6年前、息子が結婚して海外転勤になり、夫と二人暮らしになった。無口で冷淡で、定年後は自室にこもってパソコンでブログばかり書いている夫との関係は冷えていた。淑子は、夫の反対を押して柴犬のボビーを飼い、それからはボビーが心の支えとなった。
飼い主仲間のヨシダさんは、有名なデザイナーだが、気さくで明るい人気者だった。淑子は、雨の日、他に散歩者がいないときに彼と公園で話をするのを楽しみにしていた。
ある日、ボビーが心臓の病気を患い、余命いくばくもないことを知る。愛犬を失う悲しみに日々憔悴していった淑子は、夫から思いがけず、やさしい言葉をかけられて戸惑う。
冷淡な夫は、実は無口で照れ屋のおじさんだとわかるのだった。
淑子が公園でヨシダさんと飲むのは、中国のプーアル茶。
★トラベルヘルパー
元トラック運転手で60歳独身の下総源一は、いきつけの古書店で堀切彩子(50歳くらい)と知り合う。彩子は、古い日本映画に出てくるような楚々とした雰囲気の女性(原節子あたりをイメージしているのか)。下総は一目見て彼女に心を引かれ、その後、ファミレスでのデートを重ねる。
下総は、5歳のとき両親が離婚し、一時期三重県志摩町の和具で海女をしていた祖母のところに身を寄せていた。にぎやかで活気に満ちた海女小屋で時を過ごすうち、内気な少年だった彼は、ものすごいおしゃべり小僧に変身する。
彼は、長距離トラックが大活躍していた時代にドライバーとして大いに働き、物を運ぶ仕事に誇りを持っている。
やがて、彩子から突然別れを告げられる。が、どうしても彼女への思いを捨てきれない下総は、トラックの運転手にしかできないロマンティックな愛の告白プロジェクトを企てるが、敢えなく失敗。
傷心のまま祖母と暮らした和具を訪れる。
下総が三河内焼の茶碗で飲むのは、狭山の新茶などの日本茶。彩子がファミレスで飲むのは、パラダイストロピカルアイスティ。

共生虫
村上龍 (2000年)
講談社
引きこもりの青年ウエハラは、悪意に満ちたネットの世界を知り、殺意を持つことで活力を取り戻す。
彼が引きこもる暗い一室と対照的に、後半の舞台は緑あふれる野外へ移る。
山林の植物や昆虫は、共生虫というイメージとともに生き物の内臓のぬるぬるとした不快感に満ちているが、それはむんむんとした生の力を感じさせるものでもある。のだろう か。 (2003.4)


69 sixty nine
村上龍著(1987年)
集英社、集英社文庫
映画化されるにあたって読み返した。映画の宣伝で謳われた「フェスティバル」のことはほとんど覚えていなくて 「バリ封」とその後の謹慎のところだけが印象に残っていた。
とにかく元気がよくて楽しい。方言が微笑ましい。理屈をこねくり回す時には標準語になるというのも可笑しい。こんな高校時代を過ごせたらさぞかし楽しかろうと思う。
彼らが1969年の佐世保で知っていたことを、私はその十年後くらいに上京して大学で知った。
ゴダールやケネス・アンガーやストーンズやらが今よりずっと身近に感じられたころに読んだ気がしていたのだが、初出が87年、文庫は90年だからそこまで年代が古いわけではなかった。
今回読んでみて、彼らの活きの良さにわくわくしながらも、一方で達観した教師の言葉に感じ入ってしまったのは親になったせいなのだろうか、などと思った。(2004.7.6)

この一言(No.10):「例えば、夏には、きれいなヒマワリやカンナが咲く、それを見るだけで、まあいいや、と思うんだ。」
映画化:「69 シクスティナイン」

コンビニ人間
村田沙耶香著(2016年)
文芸春秋社

直木賞受賞の話題作。
古倉恵子は、大学在学中に開店したコンビニでアルバイトを始め、大学卒業後もアルバイトを続けて18年が経過、36歳独身の女性となっていた。その間に、コンビニの店長は8人代わり、店員も扱う商品もめまぐるしく変化してきた。
恵子は、幼いころから人と違った感性を持ち、集団になじめず、感情を表に出さなくなった。人との接し方がわからず、コンビニに入れ替わり立ち代わりやってくる同僚の誰かしらを見本にして話し方や服や持ち物を決める。彼女は、コンビニの中では、店長や同僚、お客とコミュニケーションを取り、仕事をきちんとこなし、職場の一員として生きていくことができるのだった。
ある日、結婚相手を探す目的で、白羽という若い男がアルバイトとして雇われる。彼は、コンビニで働く人たちを「底辺」と呼んで見下すが、自分自身だってかなり「底辺」の人間であることは認めず、すべてを周囲のせいにして自分に都合のいい未来を妄想していた。彼は、勤務態度の悪さと客の女性にストーカまがいの行動をしたことからコンビニを首になるが、その後恵子と再会、二人は世間体を取り繕うためにいっしょに暮らし始める。彼は、恵子にコンビニのバイトを止めさせ、他に勤め先を見つけて就職させ、彼女に養ってもらう計画を立てる。が、恵子は、コンビニなしの生活はもはや考えられないのだった。
タイトルから想像したとおりのような話で、なんというか、私は可もなく不可もなく感じてしまった。
恵子が変人であることを示す子どものころのエピソード、死んだ青い小鳥を拾ってきて「みんなで食べよう」と言ったこととか、小学生のとき喧嘩している男子を止めようとしてスコップで男子の頭を殴りつけたこととか、なんだかあまり説得力がなく、おもしろくない。(これならたとえば太宰治の「人間失格」の、電車とホームの間に足を踏み入れてしまわないかという恐怖におびえていた「私」の方がよほど尋常ならざる感じがする。)「普通」でないと非難されるという恵子の思いも、世間はこんなものというより彼女の被害妄想じみて見える。さらに、せっかく白羽という人が出てくるのに、この人もおもしろくなかった。
コンビニは、日本で肥大するサービス業の煮詰まった末端として事細かに描かれる。それを読んで日ごろから抱いていた思い、日本のサービス業はどこまでいくのか、もういいかげん、客を甘やかすのはやめ、無理なサービスは無理なものとして歯止めをかけてほしいという思いを、改めて強く感じたのだった。(2017.3)

海獣ダンス
山本甲士著(2012年) 小学館文庫
干潟のある小さな町で起こった町おこしプロジェクトを巡る物語。
長崎県との県境にある佐賀県のひなた町(架空の町であるが、諫早とかあのあたりっぽい)では、干潟の沖にちょくちょく姿を現す謎の水生生物のことが話題になっていた。町を挙げての一大プロジェクト、ヒナタグランプリの開催を間近に控えたある日、会場となる干潟の近くで、謎の海獣がついにその姿をはっきりと現す。居合わせた人々により、鮮明な写真が多数撮られる。海獣の正体は、どうやら「スナメリ」というネズミイルカ科の哺乳類であるらしい。専門家のお墨付きを得た町は、町長をはじめ役場を上げて「スナメリちゃん」をメインに据えた町おこしプロジェクトに乗り出す。
商工観光課の若手職員出水英一が、プロジェクトの中心的な役割を担う。彼は、大手ビール会社の広告部を辞し、ひなた町役場に即戦力職員としてやってきて半年という経歴の持ち主だった。
そうした彼の経歴に興味を抱き、月刊誌の「人間カタログ」というシリーズ企画のひとつとして彼に目をつけたフリーライターの白銀力也は、密着取材の許可をとりつけ、出水の行く先々に同行する。
プロジェクトに熱意を見せる川尻町長は、元暴走族でカマボコ会社社長という異色の経歴を持つ男で、出水を高く評価し、出水も、形式にこだわらず、実践的で度量の大きい町長に信頼を抱いていた。
スタッフは、「スナメリ応援委員会」の立ち上げに動く一方、キャラクターグッズや着ぐるみの手配を行い、計画は着々と進んでいく。(会議におけるありがちな提案や、HPを用いた姑息な情報発信など、そのやり口は斬新さのかけらもない。)ところが、やがてスナメリの本当の正体が明らかになり、計画は立ち上げ前から、破たんを余儀なくされる。
大手企業の広告戦略に疑問を覚え、敢えて田舎の役場の職員となった、まっすぐで有能な若者が生まれ故郷の活性化のために奮闘するという爽快な町おこし話かと思ったのだが、違った。
読み進むうちに、出水という男の瑕が少しずつ表に出てくる。町長や課長や白銀とのやり取りの間に示される出水の心のつぶやきは、必ずしもうんうんとうなづけるものでなく、彼の幾分尊大で迂闊でひとりよがりな部分を垣間見せている。
貧乏でうだつがあがらなさそうな白銀は、可もなく不可もなく飄々として出水について回るばかりなのだが、決して馬鹿でなく、嫌みもなく、独特のペースで味わいをみせている。
着ぐるみに入った女子高生のマリちゃんや、ずっと出水に馬鹿にされっぱなしの江津課長が実はなかなかいい人というのもよかった。
スナメリの正体は、初めて出水らの前に姿を見せたときから、なんとなく思っていたような方向に行ったが、最後のダンスはどうなのか。思わず「ありえない。」とつぶやいてしまいたくなるような事態で、出水らのように手放しで「万歳!」と叫ぶ気には、なれなかった。
でも、そんなふうにもやもやと感じた方が、この小説には合っているんじゃないかとも思う。ゆるくてもやもやした感じがなんとなくいいような、小説全体が白銀の持つ雰囲気をまとっているようだ。(2012.3)


珈琲相場師 The Coffee Trader
デイヴィッド・リス著 (2003年 アメリカ)
松下祥子訳 ハヤカワ文庫
1659年のオランダ、アムステルダム。ユダヤ教徒の相場師ミゲル・リエンゾは、砂糖の取引きに失敗して多 額の借金を負っていた。彼は、起死回生を期して、ヨーロッパではまだ未知の飲み物であったコーヒーの取引に乗り出す。当時、世界の経済の中心として、活気 に満ちていたアムステルダムの町の様子がいきいきと描かれていて興味深く、珈琲を初めて口に したミゲルが、次第にその不思議な飲み物のとりこになっていく過程も面白い。
が、新しい商取引に賭ける商人の心意気とか、刻々と変わる相場をめぐる取引所での熱い駆け引きといったこと を期待するとちょっと違う。話は、ビジネスの駆け引きというよりは、個人的なうらみに端を発する謀略という形で進み、宗教も絡むのでピンと来ない部分が けっこうあった。
ミゲルと、ミゲルの弟の妻ハナとのやりとりも、余計と言えば余計でかなりのページを裂いているのだが、ハナの置かれた立場があまりに理不尽なので(この時 代の女性の扱いとしては当たり前のことだったのかも知れないが)彼女に同調し、この部分は割と抵抗なくドラマとして楽しめた。
後味はあまりよくない。やはり思っていたのとは違ったというのが正直なところ。(2004.9)

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