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○ 本 評伝(文学)  

<著者姓あいうえお順>
狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ(梯久美子 かけはしくみこ)

狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ
梯久美子(かけはしくみこ)著(2016年)
新潮社
島尾敏雄作の有名な小説「死の棘」(1977年・昭和52年新潮社より刊行)は、夫の浮気を知って狂気に走る妻と、誓いにより以後は妻に付き従う夫の姿を描いた夫婦の愛憎劇らしい。本書は、その妻島尾ミホに焦点を当て、夫との関わりを中心にその人となりを探っていく、彼女の評伝である。ミホの小説(彼女も小説を書いている)も紹介している。
主にミステリや冒険小説など娯楽活劇を好んで読む私としては、「死の棘」は最も遠いところにある類の小説のひとつなのだが、この何年か、勤め先の会社で奄美群島の世界遺産登録に関わる業務を受託していて、奄美大島や加計呂麻島(奄美大島の南にある島)の情報がいろいろ入ってくるようになった。奄美でミホと出会い、晩年は奄美で彼女と暮らした島尾敏雄に興味を抱いたうちの社長が本書を読み、おもしろかったと言ってわたしに本書を勧めてきた。こんな機会でもなければ決して読むことのないジャンルだと思い、挑戦してみた。どうせなら、本書を読む前に「死の棘」を読もうと思ったのだが、これがわたしにとってはかなりの難物で、夫を責め続ける妻と、妻を冷めたような目で見て描写する夫と、そんな夫婦のやりとりが行変えなしで延々と続いていて、最初の3ページくらいで挫けてしまった。これはもう完全に個人的な好みというか、相性というか、わたしの性分の問題であって、小説の良しあしとは無縁だと思われる。後ろの方のページも覗いてみたのだが、どうしても全編を読む気になれず、結局、「死の棘」自体を読むのは断念して、巻末にある「死の棘」のあらすじに目を通してから、本書を読むことにした。
というわけで、私は「死の棘」のファンどころか、読者ですらない。にも関わらず、そして本書の分厚さにも関わらず、筆者の熱意に圧倒されたものか、奄美大島に派遣されてきた特攻隊長と島に住む女性教員の戦時下の恋がすこぶる強烈なものに感じられ、その後の二人についてもどんどん興味がわいてきて、わりとすらすら読み進んでいけたのだった。
「死の棘」は、夫側から夫婦間のことを描いたものである。ミホも「『死の棘』の妻の場合」という本を書こうとしたのだが、書かずじまいだったという。本書は、ミホが書かなかった妻側からの「死の棘」でもある。
著者は、太平洋戦争中の奄美大島と加計呂麻島でのミホと島尾との出会いと恋愛、神戸と東京での結婚生活、島尾の浮気をきっかけとするミホの発病、療養、奄美への帰郷、敏雄の死とその後と、時系列に沿ってミホの人生をたどっていく。その際、島尾敏雄の小説、草稿、日記、ノート、メモ、さらにミホの小説、草稿、日記、ノート、メモなどの膨大な資料と、ミホ及び他の関係者へのインタビュー記録などを材料に、気の遠くなるような整理と分析を行っている。
たとえば「死の棘」の重要なシーン。ミホが、自宅を訪ねてきた夫の浮気相手の女性に家の前で暴力をふるう。夫はその様子をじっと見ている。ミホに地面に組み伏せられ首を絞められながら女性は「Sさんがこうしたのよ。よく見てちょうだい。あなたは二人の女を見殺しにするつもりなのね」と敏雄に訴える。著者は、このシーンを、「死の棘」本文と、「『死の棘』から逃れて」というミホの手記から引用して、照合する。
同様に、終戦間際、特攻艇「震洋」部隊の隊長だった島尾の出撃が決まり、その前夜に海岸であいびきをした二人の様子について、島尾の小説「出孤島記」と、ミホの小説「その夜」の描写を比べてもいる。
ミホは「書かれる人」であるとともに「書く人」でもあったが、著者は「書かれる人」だった時代を、書かれることが喜びであった時期、書かれることに耐えねばならなかった時期、さらに書かれることによって夫を支配した時期の三つに分類していて、興味深い。
また、彼女がノロ(沖縄・奄美地方でかつて祭祀をつかさどった巫女)の血を引く名家の出の娘であることから、島尾と親しかった奥野建夫や吉本隆明らが、ミホを「南島の巫女」という神秘的な存在としてとらえており、その見方が多くの評論家や研究者の間でもずっと続いていることに対して、著者は違和感を覚える。ノロの血を引いていることはたしからしいが、ミホは東京の女学校で教育を受けた当時としてはインテリに属する女性であり、また幼児洗礼を受けたクリスチャンであった。さらに「島の少女」という吉本の表現も、彼女が島尾と出会ったときはすでに25歳で、少女という年齢ではなかったという。こうした検証は、男性の女性崇拝、少女崇拝の幻想をぶった斬るようで、なかなか爽快だった。
小説ではほとんど人間扱いされていない浮気相手の女性についても、実際にはどんな人物だったのか、筆者は追及を試みている。膨大な資料から彼女を知ってそうな人を見つけ、つてをたどってそれらの人たちに会っていき、彼女がどのような人であったのか探っていくのだが、そのさまは、さながら、人探しハードボイルドミステリの様相を呈している。
夫婦のやりとりはとにかく壮絶である。小説を書くためなら、私生活などいくらでも売り渡すという夫の尋常ならざる覚悟とともに、妻もまた精神を病み夫を責め続けながらも限りなく夫の仕事に協働するように映って、すさまじいの一言、さらにその経緯を丹念に追う筆者の執念に圧倒された。読んだことのない、これからもおそらく読むことのない小説の分厚い解説本に、ぐいぐい引き込まれたのだった。(2017.5)

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